エリーザベト

小学生のころから現在に至るまで、漠然と、王室というものに関心がある。

宇宙に関心があったり、虫に関心があったり、インテリアに関心があったりする人があるように、
エリーザベトさんわたしは王室というものに関心があるようである。ようである、というのは、あえて意識的に関心を持っているというよりも、もっと単純に感覚的に、その手の話題を見かけたらば拾って眺めているような感じだからだ。

ご存知のように、わたしは王室と関係がない人生を送ってきたので、なにかのきっかけがあって、王室というもののあることを知ったはずです。さらに漠然としてより馴染みがあったのは「お姫様」というような表現で、『白雪姫』とか『人魚姫』の物語は年齢が一桁半ばのころに既に知っていたものの、彼女たちの物語のタイトルにつくところの”姫”というのは、いわば愛称のようなものとさほど変わらない認識であったように思う。もっといえば、まったく深く考えていなかったし、その人たちが地球のどのへんの、いつ頃の時代の人かとか、どんなものをどんな頻度で食べていたのかとか、着ていたドレスの素材はどんなものかとか、国力はどのくらいなのか、あるいは父親が王ではなく地方を治める有力な領主なのか、それとも数歳違いの王の弟なのか、とかなんとか、あらゆる点について、(今もほとんど変わらないにせよ)想像をめぐらせてはいなかった。本のタイトルって、やけにナントカ姫っていうのが多いなあ、という風には思っていました。

少し大きくなると、本屋で母が『ベルサイユのばら』の文庫本を懐かしんで購入したのを機に読みはじめ、マリー・アントワネットやマリア・テレジアやデュ・バリー夫人、マリー・アントワネットの夫のルイ16世(錠前好き)、恋人のフェルセン伯等といった宮廷側の無数の人々のほか、革命派などの勢力のことや(この世にはいろんなグループの違いがあるみたいということ)、ギロチンという死刑執行器具があって現に実際に用いられていたことなどを知った。かの有名なマリー・アントワネットのことを知ったことで少しだけ、わたしにとっての”姫”は漠然島を抜け出した。

そのあと、年齢がちょうど二桁に入るころ、『アンネの日記』を読んだ。そしてアンネが隠れ家の自分の部屋の壁に、イギリスのエリザベス王女の写真を貼っている部分に来て、わたしはまた王とか女王とかお姫様とかのことを思い出した。また同じ時期、『おーい!竜馬』を通して、日本には将軍とか大名とか公家とか姫とか武士とかいたことを知った。『ベルサイユのばら』のロザリーのように貧しい市井の人々は、『おーい!竜馬』のなかにもいて、お腹をすかせていた。漫画のなかで子どものころの以蔵は、竜馬が持ってきた白米のおにぎりをとてもうれしそうに喜びを爆発させて頬張っていた。わたしはおにぎりを食べるとき、いまでもいつもそのことを思い出して、おいしいなあと思って食べている。そうしているうちに、夏休みの最後の日にイギリスのダイアナ妃が事故で亡くなり(テレビ画面の上に速報が出て知った)、母が追悼特集の雑誌を数冊買ってきた。そこにはイギリス王室のメンバーが載っており、アンネが部屋の壁に写真を貼っていたところのエリザベス王女はいまはエリザベス女王で、アンネが生きているときもいなくなったあとも、ダイアナ妃が生まれる前も亡くなったあとも、わたしが生まれる前にも、生まれてから歩いたり話したり文字を覚えたりしている間にもずっと、生きていた人なのだということがわかり、単純にわたしがそのことを知らなかっただけのことで、世界に対して、まだめくったことがないだけで確かになにかが記されている本のように膨大に広大に途方もなく感じ、その分厚い大きな大きな本の上で頼りない見えないくらいの小さな虫のような自分の存在に、不思議に心が軽くなった。知っている(と思っている)ことなんて、知らないことに対したら限りなくゼロだからで、生きているうちいつまでたってもゼロみたいなものなのだ。とはいえ、自分比では少しずつ少しずつ、閉まりきっていない水道からこぼれる水滴のようにわずかになにかがおそらく増えているようではある。でもどこかに穴だってあいている。

ダイアナ妃が亡くなった翌年に美術館でハプスブルク家の肖像画展を観た。マリア・テレジアやマリー・アントワネットの肖像画を観て、かなり変な気分になったのは、この絵は、生きているその人たちの前で描かれたのかもしれないということで、約200年後になぜだか知らないけど、わたしの前にある、ということが、ちっとも理解できなかったからだ。この絵はしゃべらないけれど、その人たちの話す声を聞いたり、その部屋に響く靴の音を知っているし、その日の風の香りや、光の色も覚えているのかもしれない、と思うとますます、妙な気分になった。時間や空間というものが、たいへん不思議に思われて、過去とか今とかっていったい何なのか、それからこの絵の中に描かれている若いマリー・アントワネットは、そのあと自分がどんな風に死んでしまうかなんてまるきり知らずに笑っているわけか。この若いほっそりとしたマリア・テレジアも、いずれ自分が生む11番目の娘がフランスの王子と結婚してどんな風に死ぬのかなんて知らない。そしてなにがどうなってかわたしはそのことを知識として既に知っており、この絵はなにがどうなってか世紀をまたいで外国から日本にやってきて、いまわたしの目の前にあるのである。画家ももちろんこの世を去っている。これっていったいどういうことなのだろう。そのとき感じたへんな気分はいまもずっと感じ続けているけれど、ときおりものすごく生々しい。

わたしはこの展覧会で、エリーザベト皇后が横向きに写ったセピア色の写真のポストカードを買った。その写真の皇后は、ヴィンターハルターが描いた肖像画と似ていた。だからきっと、マリア・テレジアとマリー・アントワネットの肖像画も、ある程度は本人に似ているのだろうなと思った。さらに実際のところについては、この絵が知っているのだ。なぜだか知らないけれどいま私の目の前に掛っている大きな絵が。たぶん、本人たちに会ったことがあるだろう。たぶん、200年前のことだけど、なんとなくは覚えているだろう。

 シェーンブルン宮殿

Written by mariko