前回からのつづきです)

そういうわけで、ホテルに荷物を預けたわたしたちは数回左に曲がり、小さなレストランの店の外のテーブルに飾られた、白いムスカリの造花を見たり、料理を待っているトマトやパプリカや山のようなアスパラガスを見たり、小さな橋を渡って真正面にあるお菓子屋に入ってどんな風にお菓子たちが飾られているかを見たり、歩きながらいろいろ見ていた。頭のなかでは、なんとなく、ムラーノ島にゆく船着き場と海をイメージしながら。

そのうち、窓辺にシーリングスタンプ(本体と、捺してみた見本がアルファベットで一文字ずつ)やゴンドラ乗りのわりと大きな人形(おそらく歌を歌っているところ)や、卵のオブジェやヴェネツィアの地図やろうそくや羽根ペンやなんかが、目に入りきらないし、目に入りきったとしても頭に入りきらないような具合にぎっしりと飾られた店に入ってみることにした。

天井が低いけれど不思議と明るくてひろびろした印象の店の奥には工房があって、りっぱなひょうたんのような腕をした男性がいる。わたしが工房の反対側のテーブルに飾られたシーリングスタンプを見ていると、その樫の木みたいな男の人がカウンターの向こうからやってきて、使い方を見せるから、すきな文字を選ぶように言う。わたしはシーリングスタンプを何種類か持っているので、使い方は知っているのだけれど、気がついたら口が「Мがいいです」と述べている。口はときどきわたしをおいて素直になってしまう。

シーリングスタンプの見本

MはMでも書体が二種類あって、わたしは筆記体のMを希望したのだが「それは売り切れてて今ないんだ。作らないとないんだ」とのこと。この樫の木のように堂々とした体つきの男性は、あの工房で、金色のシーリングスタンプをアルファベット26文字ひとつひとつ、輝くどんぐりのように生みだしておられるようである。

欲しい書体のMがないと言われたのにもかかわらず、あまりにあっさりと「その書体はないんだ」と言われたものだからまた口がいともスムースに「じゃあ、こっちのMで」と言って、わたしは在庫のある方の、もうそれはそれはシンプルにしっかりと「M」と刻印されたシーリングスタンプの“捺し方”を見せてもらうことになった。何度も言うとそれは傲慢な感じかもしれないけど、シーリングスタンプの捺し方は実際に何度も捺していて知っているんだけど、どうやらこの樫の木さんに言われたことにはわたしの口はすべて「イエス」と言うようになっていたようなんである。

工房にあるドアの向こうから黒い短髪の女性があらわれ、持ってきた箱をカウンターで開けると、シーリングスタンプの先(アルファベットの部分)やいろんな色のロウや金と銀のスタンプパッドといったシーリングワックス・デモンストレーションセットが入っている。

 

それで「えーっと、Mでしたよね、このM。ロウの色はどれがいいです?」と確認して、シーリングスタンプを軸にセットし、アルコールランプに火をつけて、紙の上に溶かしたロウをぽたぽた溜めていく。彼女は火をまったく恐れておらず、それはそれは手際がよい。理科の実験で、蓋の閉め方を注意深く教わったあのアルコールランプが、彼女の前ではまるで柴犬のようである。彼女なら決してやけどはしないように思えるし、アルコールランプのほうにもそんなつもりは微塵もなさそうで、その関係性に憧れる。それにアルコールランプはなにも理科の実験のためにこの世に生まれたわけじゃない。

彼女は、捺す前にかならずシーリングスタンプに息をふーっと吹きかける。そして丸く溜めたロウの上に刻印する。ここで急かずに少し置くのがポイントですね。きれいにMができあがった。凹凸の、凸のほうがMで、凹の部分がその他の丸いスペースである。それでまあ流れるようにひとつめのサンプルができて、「あとこんな風な使い方もすてきよ」と彼女が言って、別の色のロウを溶かしてMをスタンプしたあと、金色のスタンプパッドを上から軽く捺すことにより、凸のMの部分に金色の粉がついてあらすてき。何度も言うとまた傲慢だけどこの方法も知っていたけれど、「ね、すてきでしょ。次は銀色でもやってみましょうか?」とかなんとか自然に言われると、「ええすてきですね」としか言いようがなく、「知ってますのでもう充分です」だなんて言えるわけがない。根本的なこととして、これはそもそもわたしの欲しかった筆記体のMではない。そしてさらにはヴェネツィアにいられるのはあと一日半なのに、使い方を知っているシーリングスタンプの使い方を色違いで何回もデモンストレーションしてもらっているわたし。それは分かっているんだけれど、「ロウもいろんな色があるし、軸の部分は共通だからほかのアルファベットとか絵とかのシーリングスタンプもセットできますよ」という具合に、広がりつづけるヴァリエーション。というわけで、わたしはMのシーリングスタンプと、茶色と青のロウを一本ずつ買うことにした。

専用の箱に入れてもらって、ホテルに帰って開けてみたら、青のロウだけティッシュにくるまれていた。本来、シーリングスタンプ一つとロウ一本しか入らない専用の箱なのである。その二つは薄いピンク色のリボンで結んであって、青いロウだけティッシュくるみであった。むろんスペースが足りないため茶色のロウはやや欠けていたが、まあ、スプーンに入れて溶かしてしまえば一緒ですね。

ゴンドラ乗りの人形や卵のオブジェに別れを告げて店を出て、両手を伸ばしたら右と左の建物に届きそうな細い通りを抜け、橋を渡って、歩いていると、たくさんカードが飾られたガラス窓を見つけた。葡萄酒のような赤や、藍色、深緑で刷られた、おそらく活版印刷によるカードが、ひたすら並んでいる。とくに案内はないので、ただポカーンと眺めていた。

 

 

すると隣のドアから恰幅のよいおじさんが出てきて、ドアとドアにくっついている柵のようなもののすき間に紙を挟んで、鍵を閉めて、なんだかご機嫌そうである。

それでわたしたちに気がついて、「おや、あなたたち、どこから来たの?」と言う。「日本です」とこたえると、そのおじさんは「日本!コンニチハ!じゃあ、日本のスターのAとBって知ってる?数年前にここに来たんだよ~。撮影でヴェネツィアに来ていたんだけど、そのときうちに寄ってくれて、名刺作ったんだよ~!彼ら、元気にしてるのかな?」と嬉しそうである。どうやら窓に飾ってあるカードはこのおじさんがこのドアの向うで作っているようだ。ひょっとしたらここは、ガイドブックに載っていた活版印刷の工房なのかも。なにも書いてないけど。

「今日はもうおしまいなんですか?」と尋ねると、「これから昼食に行くんだ。14時すぎに戻ってくるからまたあとで来てみてよ。お店は18時までだよ。じゃあね~」とのこと。陽気な雰囲気を放出しながら昼食へ向かうおじさんを見送る。彼がさっきドアに挟んでいた紙は、”14時ころ戻ります” の案内だった。

おじさんは途中で曲がったけれど、その通りをまっすぐ行くと海だった。


地図を見たら、やっぱりさっきの場所が、本に載っていた活版工房なのだった。

おじさんが昼食をとっている頃、わたしはジェラートを食べていた。そして船に乗って、ムラーノ島に着いた。

 

(またまたつづく)


Written by mariko