ドーリア式とかイオニア式とか

世界史の教科書のわりと最初のほうに、ドーリア式とイオニア式とコリント式という、古代ギリシャ時代の建築物の、柱の種類が3つ出てきた。

いま手元にその教科書がないのだが、いつか見つけて開いてみたら、その文字のところにはきっと中学か高校時代のわたしの手によって、黄色かオレンジ色の蛍光ペンできっと線が引かれていることだろう。いまよりもさらにカタカナと親しくなかったわたしの目と耳とを、授業のたびに無数のカタカナたちが吹き抜けてゆき、鐘がなってふと我に返って教科書を見ては、「いつの間にやらこんなにたくさん線を引いたのだろう」と45分の間にオレンジに色づいた数ページに驚いていたものだ。そしていくら先に延ばしても、つぎのテストの朝までには、そのオレンジ色のむこうのあれやこれやを覚えなくてはならない。

わたしの覚え方は、「ドーリア式」は「ド」だからどっしりしたシンプルな感じ、というのでなんとなく間に合ったものの、イオニア式とコリント式はいつでもごっちゃになって、どっちがぐるぐる巻きの方でどっちが複雑な葉っぱ模様の方だったか、「イ」と「コ」をじいっと見つめていてもぜんぜん覚える糸口が見つからないのだった。どちらにも伸ばす線は入っていないし、四文字、イオニアもコリントも、いずれかが飛びぬけて複雑っていう感じでもない。しいて言えば、イオニアの方が優雅でコリントの方がかわいい響きに感じるのだが(あくまで個人的に)、えいっと資料集を開いてみると、イオニア式だと思っていた方がコリント式で、コリント式と思っていた方がイオニア式なのである、100%の確率で。それに果たしてこれを覚えて何になるんだろうと思った。そしてその一連のもろもろ(教室で教科書に線を引く、資料集を見る、イオニア式とコリント式がいつもこんがらかって、ドーリア式だけは覚える、これを覚えてテストで点数を取る以外に何になるんだろうと思う、等)が一緒になって布にくるまれて、いまのわたしの頭のどこかの棚か引き出しにしまわれているのだった。

つい先日、ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』を読んだ。

1912年に発表されたので、100年以上前に書かれた物語である。わたしは長いこと、この有名な本の名前だけを知っていて、先週初めて読んだのである。佐野洋子著『ふつうがえらい』(新潮文庫)のなかに、「こんな女の子と暮らしたい」というエッセイがあり、その “こんな女の子” というのが、『あしながおじさん』の主人公のジルーシャ・アボットのことであった。「毎日毎日こんな女の子と暮らしたくなるではないか。」と書かれているところのジルーシャ・アボットって、いったいどんな風な女の子なんだろうと思って、立ったままちいさなスマートフォンの画面を操作し、光文社から出ている土屋京子訳の『あしながおじさん』を注文した。

『あしながおじさん』は、最初の数ページを除いて、全編、ジェルーシャ(途中でじぶんでジュディと名前を変える)・アボットからあしながおじさんへの手紙である。わたしは手紙というものがとても好きだけれど、これが物語であるおかげで、本当はジュディとあしながおじさんとの2人しか知らない手紙の内容を、部屋に誰もいない隙を見て大急ぎで盗み読むような手段ではなくて、ごく当然のような顔をして読むことができたのであった。それにわたしはあしながおじさんと違って、ジュディからの次の手紙を首を長くして待つ必要もなくて、次から次へとページをめくって、残りのページが減ってゆくのは寂しいことこの上ないけれど、先が気になるから読みたい願望をひたすらに優先させて、本が届いた次の日に、ジュディからの四年間の最後の手紙を読み終えた。

少し話は戻って、ジュディからの手紙にこう書いてある。

けさは、荷馬車に馬をつけて、町の教会まで行きました。教会は、尖塔がひとつあって、正面にドーリア式の柱(イオニア式かな? いつもこんがらがってしまいます)が三本並ぶ、白くて小さい木造のかわいらしい建物です。

---ジーン・ウェブスター『あしながおじさん』土屋京子訳、光文社古典新訳文庫、104頁

この文を読んだとき、わたしは、ドーリア式とかイオニア式とかコリント式とか、ドーリア式を除いて結局のところいまだにこんがらがっているこれらの柱のことを、だからぜんぜん明確に区別できないにせよ、それらがこの世界のどこかに存在することを知っていてよかったと心から思った。わたしはジュディと違って、イオニア式とコリント式がこんがらがるわけですが、なにはともあれ、こんがらがるのだ。物語のなかの100年以上前のアメリカに住んでいるジュディと、それを読んでいる2017年の日本に住んでいるわたしは、古代ギリシャの柱の様式において、ともにこんがらがりを共有している。それがわたしはとてもうれしかった。覚えられはしなかったけど、こんがらがっていてよかった。いっしょでうれしいなと思ったのだった。

というわけで、ギリシャには行ったことがないので、イタリアに行ったときの写真を見返してみた。


hashira3▲ローマのパンテオン正面の柱。コリント式。

hashira2▲ローマのパンテオン内部の柱。たいへん複雑。コリント式。柱よりも上のドーム天井に夢中でした。

hasira1▲ローマのコロッセオのなかにあった柱。コリント式と思われる。

hashira4▲ヴァザーリの回廊を抜けたお庭にあった事務所の柱。イオニア式のようなコリント式のような。(フィレンツェ)


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▲サン・マルコ美術館(かつてのサン・マルコ修道院)の中庭。柱はぐるぐるイオニア式。(フィレンツェ)

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▲サン・マルコ美術館にあるフラ・アンジェリコの『受胎告知』。顔料がきらきらしていました。
何度も引き返して観ました。手前の柱はコリント式、左奥はイオニア式でしょうか。(フィレンツェ)

普段は透明で、撮影の瞬間にぱっと姿を現したのかと思うくらい、まるで守護霊のようにいつもそっと、でも確実に映り込んでいる柱たち。撮っている本人に柱を撮影しているという自覚はほぼないと思われます。特にスケールから言っても、背の低いわたしは当然のことながら、人間一般においてもはるか頭上に伸びた柱の先っぽのことよりも、すぐそばに見えているアイスクリームやさんのことが気になるのは自然なことかもしれません。世界をわたしよりはずっと均等に見ているカメラからすれば、「この人たちはよっぽど柱に興味があるんだろうな」と思って淡々と写していたのでしょう。

なにはともあれ、こんがらがったままでいるのものよいものです。