すり鉢がほしいの巻

 

ぜだかわからないのですが時々、とつぜん、「これをやりおおせなければ、次へ進めない」というテーマのようなものが降ってきて、わたしがいくらそれから気をそらそうとしても、やっぱり無理で、寝ても覚めてもそのことを考えているようになります。

 

とえば数か月前の朝、なんとはなしにとある記事を読むやいなや「すり鉢」のことが猛烈に気になりはじめ、調べてゆくうちにもちろん猛烈にすり鉢が欲しくなり、そしたら自然の流れと言いますか「すりこぎ(山椒の木の)」も欲しくなり、ごまとくるみと山芋くらいしか思いつかないけれども思いつかないなりにもうその3つを今すぐ猛然とすりたくてすりたくてたまらなくなり、頭のなかでごまに豆腐を合わせたりし始めている。こういう場合、どうしたら止まれるのかわからない。その一方で、すり鉢にはいろいろな大きさがあり、すり鉢に刻まれた溝には作り手によっていろいろなこだわりがあるというわけで、長く大切に使うものだし、ここは冷静に考えて決めねばならないと思うも、もう手はごまとくるみと山芋をすりたくてたまらないのです。そしてまた一方で、「あなた、そんな衝動に駆られてすり鉢を買って、本当によく使うの?」という声がする。わたしのなかの婦人A。それはおっしゃる通りで、わたしもまさに今どうしてこんなにすり鉢が欲しいのかわからない。これが衝動なのか衝動じゃないのかもわからない。わからないんだけれど、もうそのことしか考えられない。両手は空中で合わさって透明のすりこぎを持って透明のすり鉢でごまをすっています。

 

り鉢はインターネットで注文した。山椒のすりこぎは売り切れていた。「山椒のじゃなくてもいいでしょう、だいたいどのくらい使うかもわからないのに」と夫人Aがたしなめている。それも尤もだけれど決めかねる。これではすり鉢だけが届いて、なにもすれないことになる。

数日後、用事があってデパートへ行ったついでにキッチン用品コーナーで山椒のすりこぎに出会い、一点一点異なる木目をじぃーと見比べて一本買う。山椒のすりこぎの手入れには「棕櫚(シュロ)のたわしがよい」と聞いて、それも買う。ついでに棕櫚の木についても色々教えてもらう。

 

の晩わたしはごまをすりました。ごまからとってもよい香り。
次の日はくるみをすりました。くるみは油分が出るので、棕櫚のたわしですり鉢の溝を洗うのに、洗いがいがあります。
そのあくる日は山芋をたっぷりすって、そのまた次の日はすり鉢とすりこぎの絵を描きました。
そうしてわたしの日常にとつぜん現れた「すり鉢がほしいの巻」、すり鉢への熱情は静かに収まったのです。
その証拠に、小ぶりのすり鉢はいまや器として黙って食卓に上る頻度が高く、能を隠していますし、すり鉢の友達のすりこぎは赤い紐でもって、ざるやお玉や軽量カップと一緒にキッチンにぶら下がっていることが大半で、ステンレスやプラスチック素材のなかにあって、とてもかわいらしい佇まい。
棕櫚のたわしはひたすら暇を持て余しています。

 

もあれ熱が収まったおかげで、わたしの頭のなかにすこし空き地ができました。
またそのうち、予想もつかなかった何かがそこへやってくるのでしょう。