小学生のころ、運動会や水泳、遠足、修学旅行のようなイベントの写真が教室の後ろや廊下に貼り出されて、それぞれ番号が振ってあって、欲しい写真の番号を紙に書いて注文するというならわしがありました。

そしてわたしの記憶では、おおむねじぶんは “妙な顔” をして、ブルマっていう変なものを履いて綱引きしたり、バスに乗っていたり、赤白帽をかぶって集合したり、あさっての方向を見たりしているのでした。

どうして、どうしてこの写真をリストから外してくれなかったんだろう、どうしてこの写真は複製を前提に複製されたんだろう、なんかの弾みに壁からはらりとロッカーの後ろにすべりこんではくれまいか、等の思いは繰り返しあらわれて止まず、じぶんでじぶんだと思うんだから確かにじぶんなのだろうけども確かに妙な顔をしているこの小さいサイズのいつかのわたしは頭のなかに複製されて、帰り道やお風呂の中や布団に入ってから瞼の裏で、わたしは彼女に何度も再会するのでありました。

夏のあいだ通っていた水泳教室で、今日が最後の日だからみんなで写真を撮りましょうと、プールの外で服を着た人が言い、水着を着て水泳帽を被りゴーグルをまとったわれわれ子どもたちは、水に浸かったままの実にプールらしい光景の中で写真を撮られました。シャッターが押されるまでの時間が迫るなか、わたしはゴーグルを目につけたままで写るか、ゴーグルを外し目を出して写るか考え、ゴーグルをしたままだったら誰が誰かわからないと思って、ゴーグルを外しました。せっかく記念なんだし何かポーズをつけたほうが良いと思いましたが、そのころなぜか屈託なくピースサインをして笑顔をつくるというふるまいはわたしにとってとってもむつかしいことでしたので、折衷案で、手をパーにして(手のひらを相手に向ける格好)、なんとなく口の両端を上に持ちあげて、写真に納まることにしました。わたしはバッチリだと思いました。小学二年生でした。

できあがった写真を見たら、朝から一時間半ほど一生懸命クロールやら平泳ぎやらやって、頬の真っ赤になったわたしは、目がほとんど閉じていて、にもかかわらず口角を上げているために顔全体としては謎めいた微笑で、一人だけ手がパーなのも単純に不可解で、ゴーグルをつけたままでも明るい笑顔を浮かべている子や、ゴーグルを外して目のぱっちり開いている子が、それはそれは眩しく見え、かように目をつむってしまうんだったらゴーグルをして、両手は水の中に浸けておけばよかったと悔やみました。

ゴーグルをしていたって、じぶんがどれか、誰が誰かなんて、わかるんですから。帽子に名前も大きく書いてあるんですから。

そして時は流れて、今は、妙な顔にもずいぶん慣れたのであります。というより、概ね妙な顔だと思って暮らしています。それから、デジタルカメラが普及いたしました。(作者)



Written by mariko