お酒の良さが伝わらない身体のため、もっぱら飲むのは水と珈琲とお茶である。
「今度飲みに行こうよ」と誰かに言ったことはないが、「今度飲みに行こうよ」とさわやかに誘われることはある。その気軽な明るさがまぶしく、「お酒飲めないんだ」という返答がそこはかとなくしづらい。
それに、飲めないこともない。アルコールを含んだ液体は、口部門・喉部門は通過していくのだけれど、消化部門がひどく手間取り(アルコールの分解は難題なのだ)、その晩は太ももがひどくしびれて頭痛も加わっていっこうに眠れなくなるのである・・・のだけれど、そんな詳細を語るのもどうなのか。そういった誠実さは求められていない気がして、弱気になって返す言い方が、「お酒飲めないんだ」です。
「飲む」という言葉には、おそらく飲めるものならなんでも含まれるはずで、お酒のみならず水もジンジャーエールも抹茶も飲むヨーグルトも黒酢も清濁もその対象であると思うが、「飲みに行こうよ」と誘われたときに「何を?漢方を?」とかなんとか訊き返したことは無い。なんとなく、無粋であるし、ふざけているように聞こえることでしょうから。
そんなわたしが好きなことは、お茶をすることです。
お茶をする、と言いますが、おおむね飲むのは珈琲(に牛乳を混ぜた、カフェラテやカフェオレやカプチーノ、と云われるもの。ややこしい)です。
お茶をするのは、たのしいのです。えも云われぬ愉快さがあります。
たぶん、基本的に、座って、珈琲を飲んで、話をしたり、ひとりのときはぼんやりしたり、本を読んだり、絵を描いたり、調べものをしたり、また珈琲を飲んだり、していればいい、そのための場所で、時間だから、です。
その場所が自宅でももてたら良いのでしょうけれど、たとえ飲み物があっても、我が家はなんだか違うのです。
たぶん、よく知っているからじゃないかと思います。住んでいる場所だから、流れている音楽も、本棚に並んでいる本も、窓の外の景色も、じゅうたんの色も、次の燃えるゴミの日も、意識せずともだいたいは知っています(とはいえ、知らないこともあるので、いつまでたっても行方不明なものがあるわけです。あの本どこいったんだろう)。
一方で、喫茶店やカフェに行くと、隣りに座っている人も知らない人だし、この時間帯だと窓の外はこんな景色なのかとか、聴いたことのない音楽が流れて来たり、大好きな珈琲の香りがずっと漂っていたりするので、よい具合に頭に穴が空いて、光や風が入ってくるような気分になります。
先日は隣に座った大学生らしい女性がスマートフォンでもう一人の写真を撮って、「ばか盛り!」と言っていました。実際よりも良く撮れている、という意味かと推測しましたけど、その言い回しに現代の一端に触れた思いがいたしました。