ビフォア・アフター(日記)

新鮮なピーマンをみじん切りにして、6つめくらいにきたとき、なかに黄緑色のあおむしがいた。そのあおむしは比較的 ― ピーマンのなかにいるにしては ― 大きく、からだに点々模様が規則的な目玉のように入っていて、わたしはもうとっさにおののいた。いったん目をそらしたのち、勇気を出してもう一度見てみたら、さっきとなんら変わらぬ深い深いおののきが、体の底から湧き出た。理屈じゃない。きっともう一度見ても、そのおののきは一番初めとなんら変わらないフレッシュさで圧倒的にわたしをつらぬくだろう。わたしの身体には、あおむし用おののき装置が仕掛けられているらしい、いつの間にやらあらかじめ。憶測でしかないけれど、おんなじようなおののき装置は、ある鳥やある猫やそのほかの生き物にも組み込まれていて、世界のあちこちで作動しているのかしら。たぶん、そうなんじゃないかな。

そしてさらなるサプライズとして、おなじピーマンのなかにもう一匹、あおむしがいたのである。こちらの彼or彼女には目立つ目玉模様がなく、素朴な黄緑色をしていたので、わたしのなかのおののき装置はさきほどに比べれば控えめではあったものの、二匹目がいるなんて思いもよらないからやはりまったく冷静にいくはずもなく、「ハハ、あれですな、ピーマンって内側から生で食べても美味しいんですな、いやーいつも火を通して食べてるもんですから、知らなかったですなあ。しょう油とかね、豆板醤とかね、そういうの混ぜて炒めて食べたりしてるもんですからねえ、やっぱり通(ツウ)は、内側から生なんですなあ、ハハ!」って話しかけたりするゆとりなどあるはずもない。こんなときに、声なんか出ないんであった。

二匹のあおむし氏たちにご退出いただいたピーマンは、よく見れば、二か所の穴 ― すなわち何者かが食べたか通り抜けたかした形跡 ― が空いていて、それは外側からでもわかるものであったが、1分半前のわたしはそんなことに一切の注意を払っていなかった。まず土を洗い落とすのに夢中だったし、ピーマンを切り終えた後に豆腐を冷蔵庫から出すことなんかを考えていたし、新しいまな板を買いたいと思っていたことを思いだしたり、傍らに置いたスピーカーから流れるoasisを聴いていたり、一切何事にも集中していなかった。そしてなによりも、ピーマンのなかに、あおむしがいる ― しかも二匹 ― 可能性のことなんて、これっぽっちも考えていなかった。地球(というか地面)が太陽の周りを回っている&自分でも回っているって微塵も思っていない時代の人々に会ったら、「ねー!!わたしもね、ほんと、そんなこと、考えてもみなかったんですよ!あとからいろいろ言われたら、まァ、ひょっとしたらそういうこともありうるのかな?とも多少思えたりなんかしないこともないですけどね、普通に生きててね、ぜんぜん考えたこともなかったですもんね、まさか地球が回ってるとか、ヘタつきピーマンのなかに虫が入っているなんてね!!」って親しみを持って語りかけられるほど、『そうは思わなかった』という一点においてのみ、なんの曇りもないつよい信念を持っていたことは疑いがない。「野菜に虫は入っているもんでしょう。畑でつくるんだからさ。地球のはなしと一緒にしないでもらいたい」と返答される可能性はおおいにあるが。

それで、いま冷蔵庫の野菜室にのこり4つのピーマンが入っているのである。次に使われるときまで保存されている彼ら。次っていつだろう。もはやわたしは身体中の勇気をかき集めなければ、ピーマンを切ることができない。可能性を知ってしまったのだ ― なかにどなたかがいらっしゃる可能性を ― 。それでもう、のんきに包丁を入れることなどできはしない。それほど、おののき装置の余韻は強力なのだ。よくわからないが、そのおかげもあって、祖先たちは危険を回避し生き延びてきたのだろうから感謝の念はおおいにあるものの、しかし。ピーマンに関しては、この装置とその余韻は効き目が大きすぎ、あれから二日経つのだけれども、この4つのピーマンに次回作に出ていただく予定は今のところ立っていない。

可能性を知らなかったころのじぶんに戻りたい ― いまや、oasisを聴いただけでほんのりと思いだしてしまうくらいなのである、黄緑色の方々のことを。