あんパン

こころのなかのあんパン(日記)

久しぶりに行った町で、あるパン屋さんのことを思い出し、行ってみることにした。この町の脳内地図(非改訂版)を広げながら歩いてゆくと、今も変わらずあの場所に、パン屋さんはあった。

買ったばかりのあんパンを座って食べた店先のベンチも、そのままあった。何十回も行ったことがあるわけではないけれど、行く度に買っていたのがあんパンで、たぶん、あんパンしか買ったことがないかもしれない。

店内はトレーを持ったお客さんと、会計をしたりパンを包んだりパンを運んでくる店員さんで賑やか。きのこのたっぷりのったパンやら、旬のぶどうののったパンやら、オリーヴの入ったパンやら、ドーナツやらクッキーやら、シュトーレン予約販売の貼り紙やら。

店のなかを一通り見わたすと、自分でトングで取ることのできるほかのパンたちと違って、あんパンは、正面のショーケースの中にうやうやしく、ほっぺを蒸気させてにこにこした子どもたちみたいに並んでいた。― そういえば、あのころもそうだったような気がする。

ショーケースのなかに、あんパンは、そんなにたくさんはなさそうだった。それで、なによりあんパンをお土産に買って帰りたいわたしは、お会計の列に並んでみることにした。ひとつ前の女の人が夢のようにたくさんのパンを選んでいて、果物やクリームののったパンは紙製の箱に収まり、そのほかのパンもひとつずつビニール袋にくるくると包まれてゆくさまを眺めて待つ。店員さんによってケースから取り出された3つのあんパンが、カウンターのうえで袋に入れられるのを待っている。

ショーケースには、あと2つ。わたしは運よくあんパンが買えるらしいことにホッとしてうれしい気持ちだった。ちょうど2つ残ってるなんて、こんな不思議なタイミングもあるものなんだな~とかなんとか思いながら。

「ご注文をお伺いします」

ようやく店員さんに声をかけられたので、「あんパン2個ください」と言った。ショーケースのなかの2個のアンパンを見やりつつ。

すると、会計の列とは別のところにいたご婦人が、

「あれ?それわたしが先にお願いしてたパンなんだけれど」

と店員さんに言う。「ねえ、そうよね?」とほかの店員さんに念を押す声が聞こえる。

どうやら、その人はすでにパンを買って支払いも済ませていたが、追加であんパンが買いたいと、別の店員さんに直接伝えていたらしい。しかしそのことをレジの店員さんは知らなかったために、彼女はきょとんとしていたし、あんパン2名もショーケースのなかに並んだままだったのだ。そしてそれを買いたいと言ったのがわたし、というわけ。

状況は把握できたものの、それならそれで、この、その他大勢が従っているところの、 根気強く “列に並ぶ” システムとは何なのか。歌舞伎の大向こうみたいに「よっ!あんパン2つっ!」と威勢よく、ただ立っている場所から叫んだらよかったのだろうか、ほかに並んでいる人や店員さんの事情に構わずに ― いや、それはちがうんジャナイ? ― かといって、並んでいるのがなにがなんでも正しいんだってこともない。誰に言われるでもなく並んでいたのはわたしの勝手な判断なのだし、むかしベトナムの文房具屋さんで列に並んでいたら、それは列っぽいなにかであっただけで、次から次と “抜かされて” いったっけ、抜かされるもなにも、そもそもどうやらあれは列じゃなかったんだけど ― という具合に考えが一瞬めぐったが、わたしは即座にあんパン2個を辞退したのであった。そして、スッと後ろへ下がった。

「ごめんなさいねえ」と口のところに手を当てて、ご婦人が言う。

だいじょうぶ、あんパン2個のことじゃないか!と思って、元気を出そうとした。ところが、わたしは思ったよりもずっと悲しい気分なのだった。こころのなかにあったあんパン2個が、ぽしゅん!と消えてしまったのだ。あんパン2個が消えてしまったところは、あんパンのかたちの空白で、それ以外はあん(餡)の色の混ざった、ぼんやりとした暗がりである。あんパンは消えてしまったので、さっきまでのうきうきした気持ちは、あんパンのかたちにあいた穴を通り抜けて、アレ?となり、またこっち側に戻って来ては、アレ?となり、「お土産にあんパンは買えなかったし、食べられないのだ」という事実に少しずつ気がついて、しょんぼりしてゆくのがわかった。

あんパン2つぶんの空白

店を出てとぼとぼ歩く。でもわたしはたぶん、なにも損なわれてはいないのだ。こころのなかに、あんパンのかたちにあいた2つの穴はあるけれど、だからって、わたしがあんパンの穴2つぶん、損なわれたわけじゃない。だれのせいでもないし、そういうタイミングだったというだけ。それだけそれだけ。そのうち、穴の向こうに夕焼けも見えるだろう。

家に帰り着くころ、2つの穴の輪郭はぼやけはじめていた。