靴下に、あな

2012

昨夜帰ってきて洗濯機の前でぼんやり靴下を脱いでいたら、めり、と嫌な予感と感触があった。
「破けたな」と思い、心のなかで冷や汗をかき、ようやく脱ぎ終えた長いそれを検分したところ、かかとの部分に穴があいていた。

(ちなみに「ひじ」と「ひざ」、「右」と「左」に加えて「かかと」と「つま先」は、わたしの三大”瞬間的直感的に把握できないペアたち”である。)

何度見ても穴があいてしまっていた。それは繊細な花模様が、プリントではなく編みこまれた長くて薄い靴下だったので、つまりかかとの部分に咲いていた花が散ってしまった。そして穴が咲いていた。わたしの口もぽかんとあいているばかりで、勢い糸を取ってきて縫ってしまおうとも思ったが、こういう場合には一呼吸おく(あるいは一晩おく)のがコツな気もし、それでもうすぐあの新しい穴がこの世界に生まれて24時間が経過しようとしている。ほかの長い部分には何も問題はない。くわえて、もうひとつの(左の)靴下にはまるきり支障がない。

穴があいてしまったらふさいでしまおうというのが、瞬間的生得的われわれの(わたしの)欲求なんだろうか。

靴下(のかかと)にあいた穴の効用ってなんだろうか。しかも片方の。

靴下って、左右同じじゃなきゃいけないものなんだろうか。一卵性双生児だって、片方は何よりクロスワードパズルが好きで、片方はそれをまるっきり時間の無駄だって思う場合もあるかもしれないのに。それに、靴下を履いているところのわたしの足だって、まるきり同じというわけじゃない。わたしの足は左脚が右脚より細く、靴屋さんで靴を履いてみたときにはどちらかの甲やつま先が「合っていない気がします」と言う。左右の足、互いの妥協点を探っていくことが、靴選びの醍醐味である、と書けば、靴選びのさいの面倒くさい試し履きの嵐が、すこし前向きな取り組みに思われてきます。

昨日わたしは靴下を3枚ずつ履いていた。いつも大体3~4枚履いている。だから脱ぐのは結構たいへんだ。加えて昨日一番上に履いていた花模様の長い靴下は繊細だったので、繊細に脱がなければいけなかったのを、左右それぞれ3枚の分厚い層を形成している靴下の状況を、ひとまとめにただ脱ぐもの、と雑把に考えてぼんやりしていたのがよくなかったのだ。それで穴があいてしまったのだ。この世界にこんにちは。

先々週は右ひざに穴があいた。これは靴下の穴と違い、向こう側が見えない類のもので、血が出るが、靴下と違ってなんということか自己修復機能を有しており、そろそろふさがりつつある。何にもない道端でこけたのである。

人それぞれだと思うけれども、わたしは偶然が結構好きである。よくよく考えれば、「(場合によっては)好き」ということかもしれないけれど、偶然こけたりつまづいたりするのは結構痛いので。だけど、美術館へ行ってちょうど観たかった作品に出会えたときとか(先日川村記念美術館でジョセフ・コーネルの作った箱を7つくらい見た。その数日前に読んだ本にコーネルが出てきていたところだったので、うれしかった。家族連れの父親が「小学生の夏休みの課題みたいだな」と言っていた。家族がろくに聞いていなかったのか、その同じ言葉をもう一度言っていた)、出掛けた先でちょうど会いたかった友達に会えたり、印象深いフレーズが目の前に現われたり(ポロック展にて、オールオーヴァーと呼ばれる作品について「終わりもなければ始まりもない」というようなことを、1950年代初頭に撮られた彼のドキュメンタリー映画のなかで言っていた。そのとき読んでいた本にもちょうど同じようなことが書いてあって、気になっていたのだった)するときに、わたしは少しの間ののちに、その不思議な偶然に、ふわふわした綿あめみたいな喜びが沸いてくるのを感じる。その符合の、あまいような感じに笑ってしまう。

“偶然”は、靴下にあいた穴みたいなもの、であるような気もする。時間と空間を飛び越えて、穴の向こうに突然現われる景色だとか人だとか。日々に偶然の穴があいていなければ、わたしはある日あるときある場所で、誰かに会ったり何かを見つけたりすることはないかもしれない。

カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』において、主人公のビリー・ピルグリムは時間旅行をする。(ただしその旅行はまったく自発的なものではない。彼は、いつじぶんが時間旅行するのかをコントロールすることはできない。)第二次世界大戦でアメリカ軍の歩兵としてヨーロッパ戦線に向かい、ドイツ軍の捕虜になり、ドレスデン無差別爆撃に遭うことになる彼は、(結局戦争を生き延びるのだが、)その過酷な日々の最中、何度も時間旅行をし、戦後の結婚や、検眼医として商業的に成功を収めることだとか、トラルファマドール星人によってトラルファマドール星につれてゆかれて、トラルファマドール星の動物園にて地球人のサンプルとして地球環境を模したドームのなかで生活したりすることだとかを経験する。そして次の瞬間には戦争、である。また次の瞬間にはトラルファマドール星。


ビリー・ピルグリムはいう。トラルファマドール星人には、宇宙は明るい光の点をちりばめた暗い空間とは見えない。彼らは、ひとつひとつの星のこれまでの位置、これからの位置を手にとるように見わたすことができるので、空はか細い、光るスパゲッティに満たされている。

(~略~)

「トラルファマドール星には電報というものはない。しかしきみの考えはまちがってはいない。記号のかたまりは、それぞれやむにやまれぬ簡潔なメッセージなのだ---それぞれに事情なり情景なりが描かれている。われわれトラルファマドール星人は、それをつぎからつぎというふうではなく、いっぺんに読む。メッセージはすべて作者によって入念に選びぬかれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない。ただそれらをいっぺんに読むと、驚きにみちた、美しく底深い人生のメッセージがうかびあがるのだ。始まりもなければ、中間も、終わりもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない。われわれがこうした(トラルファマドール星的な ※筆者注)本を愛するのは、多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができるからだ」(『スローターハウス5』、106~108頁、ハヤカワ文庫)



トラルファマドール星人は、すべてを一度に一望できる。彼らにとって人間は、「一端に赤んぼうの足があり、他方に老人の足がある長大なヤスデ」のように見える。彼らの感覚でいえば、わたしの靴下には穴があくことになっていて、わたしのひざにはほやほやの傷と治った跡があり、わたしはコーネルの箱を観ることになっていて、ある日あるときある場所で友だちに会うことになっている、のだろう。すべてが「たまたま」ではなくて、もっとフラットな、不思議な感覚抜きの「”あらかじめ”の出来事」である。トラルファマドール星人は、言う。「きみたちがロッキー山脈をながめるのと同じように、すべての時間を見ることができる。すべての時間とは、すべての時間だ。それは決して変わることはない。予告や説明によって、いささかも動かされるものではない。それはただあるのだ。瞬間瞬間をとりだせば、きみたちにもわれわれが、先にいったように琥珀のなかの虫でしかないことがわかるだろう。(同上、104頁)」こうも言う、「わたしは知的生命の存在する三十一の惑星を訪れ、その他百以上の惑星に関する報告書を読んできた。しかしそのなかで、自由意志といったものが語られる世界は、地球だけだったよ。(同上、105頁)」

ビリーとちがって、わたしは時間旅行をしたことがない。だから先のことはわからないし、あるいは過去についてだってよくわからない。たとえわたしの瞬間瞬間が琥珀のなかの虫であるとしても、それを見つめるわたしの眼は橙色の硬い琥珀のなかではなくて、やわらかい今のほうにいるからである。振り返ると必然でしかないように思えるのは出来事のほうで、しかしながらそれを思い起こすわたしのほうはいつも同じではない。わたしが同じでないのだから、わたしが思い起こす過去だっていつも同じではない。紙に書いた何かの文章はずっと同じかもしれないが、それはそれがものだからだ。紙にしたって、トラルファマドール星人からすれば、すでに破けたり虫に食われたり土に返ったり枝が伸びたりしているのかもしれないが。

というわけで、靴下にあいた穴は、わたしが何か”自由意志でもって”手を加えなければ、あいたままである。昨日の朝のわたしは、その夜靴下に穴があくことを知りはしなかった。それで、ぼんやり靴下を脱ぐのであり、口をぽかりとあけるのである。

わたしは美術館で偶然コーネルの箱を観て喜んだし、偶然友だちに会って画材屋へ一緒に行き、油絵のあれこれについて教えてもらうことができたのである。太い油絵の具のチューブや一本一本に書いてある「乾くまでの時間」や色々なオイルの瓶を見て、まるで魔法使いの実験道具みたいだなあ、と面白がったのである。何が起こるかわからないから、いい。トラルファマドール星人的生活よりも、地球人的生活を送れている日々がすきだ。何でも想像し放題。あなはいつもあたらしいあな。