クリップたち

 

クリップが家にたくさんあります。

わたしはクリップをありがたがる傾向があるようで、なにかの書類などをもらうとき、その書類がクリップで留めてあったりすると、心のなかで「まあ、こんな高価なものを」といつも思う。100円ショップでクリップを買うときも、「貴重なものがこんなにたくさん入っているのに100円」と驚いている。

貴重なもの、ありがたいもの、と無意識に崇めすぎてか、クリップは引き出し(A)のなかにたくさんあり、引き出し(B)のなかにも、箱(A)のなかにも、めったに開けない引き出し(C)のなかにも、たくさんある。その一方でいざ使いたいときに、目玉クリップがぜんぜん見つからなかったりする。

ハワイのコナコーヒーの袋に金色のクリップがついて売っていた。そのコーヒーを開封するのは至難の業であった。いずれ開封したのちに袋の口を折って留めるためにクリップがついているのだろうに、袋のてっぺんで鈍く金色に光る外国製のクリップを取り外すなんて、めっそうもない、という畏れが、わたしの手を近づかせないのである。コーヒーは飲みたいけれど、クリップを取り外せないから開封できやしない。それでもわたしは納得していたのであった。変なの。

そうはいってもたくさんある。家のなかで迷ったヘンゼルとグレーテルが、パンのかけら代わりに撒いていったんじゃないかと思うくらい、あっちこっちにある。そういうわけで、崇め奉ってばかりいないで、なるべく使っていくことにした。

白い紙を束ねてクリップで留めてメモ帳にし、それになにかのレシピを書く際など、いまだに「すいませんね、こんなしょうもないことばっかり書いちゃって」とかなんとか、紙を統率しているところのクリップ氏に対して恐縮している。クリップ氏はなにも言わない。レシピを書いたあと、冷蔵庫にくっついたマグネットのフックに、クリップをぶら下げる。料理しながらレシピが見られてとても便利である。そこでもなお、「ごめんなさいね、ぶら下げたりしちゃって」と小さく謝る。クリップ氏はなにも言わない。きっとこの先もずっと。