しいたけと犬

わたしはだいたいにおいて、スーパーであれやこれやを口に出しています。

にんじんを見て「にんじん」と言い、
鱈を見て「鱈か」と独り言ち、
しいたけを見て「ふうむ、しいたけね…」とさも思慮深そうにつぶやきます。

それもこれも、材料を買いに行っておきながら、肝心の、なにを作るかを決めていないがために起こるTweetなわけです。
思慮深そうに「しいたけね…」とつぶやいている実のところは、何も考えていないというわけで、目に見えたものを口に出すくらいでもして、一切合切が景色として通り過ぎて行ってしまうというような晩ごはんノーアイデアぶりに、楔を打っているのかもしれません。

頭で「しいたけね」と思っているのと、口で「しいたけね」と言うことの、違いって何でしょうか。

頭のなかで考えているだけの場合、気がついたらずいぶん遠くへ、あるいは明後日の方向へ(わたしは “明後日の方向” という言葉が好きです)行ってしまっていることがあります。見たことはないのですけれど、頭のなかは縦横あっちこっちへ際限がないので、

(しいたけ・・・椎茸・・・椎の茸・・・茸?/マツタケ?マツタケの季節か・・・、松茸は松の茸で、椎茸は椎の茸かあ。タケって何?きのこのこと?なんで、草冠に耳なんだろう。耳・・・。/バカマツタケってどんな味なんだろう。というか松茸より早く生えてくるからって、シーズン分かっていないからって、”バカ” ってつけなくてもいいよねえ。みんながみんなおんなじ時期におんなじことするわけじゃなし。しかもおいしいんだったら、ありがたい話なのにね。/かわいい花を咲かせるあの “ぼけ” っていう木は、どうして “ぼけ” なんだろうねえ。)

という具合にただの連想ゲーム化し、気がついた時には(気がつけばよいほうですが)、目の前には、ぼけも松茸もなく、椎茸が6つで300円で売っているにすぎないわけです。そこで、再びハッ!として、晩ごはんを考えはじめるわけですけれど、一旦明後日の方向へ行ってしまった脳のなかのわたしは、こっち(スーパーの野菜売り場)へ帰ってくるのにしばし時間がかかります。

そういうわけで、
わたしは「しいたけね…」と口に出しているんじゃなかろうか。
例え、一人でも。
隣りのご婦人に、「この人、独り言が激しいわ」と訝しく思われようとも。

(しいたけ・・・同級生のあの子はしいたけが嫌いって言ってたよね・・・わたしは海老が苦手だけど・・・わたしの大好きなしいたけも、あの子にはおいしくないんだなあ・・・不思議だなあ・・・今はこうしてスーパーで食材を選べるけど、縄文時代に生まれてたら貝が嫌いっていう人はしんどいよねえ。どんぐりって何個食べたらお腹がいっぱいになるのかな。)

放っておくとこんな風にいくらでも取っ散らかる頭に、あなたの現実に見えているものは1パック300円の「しいたけ」であり、縄文時代の浜辺や森ではない、ということを絶えず分からせる必要があります。そのために、目の前の光景とふわふわした頭のなかを結びつける紐として、わたしは声に出しているんじゃなかろうか。それに声に出せば、耳が聞くわけで、より身体的に「晩ごはんの材料を買いに来ている」自覚が増すでしょうから。わたしは決めるべきなのです。このしいたけを買うか買わないか。なにを作るか作らないか。

電車に乗っても、向かい側に座っている人を見て「人間か」とは口に出しません。基本的に電車の中では頭が自由で構わないので、現実とふわふわ脳内を繋ぎとめておく必要がないからです。

いっぽう、散歩中のかわいい犬を見ると、「犬・・・」と口に出すこともあります。しいたけを見る100倍の熱意で、一生懸命歩いている犬の目や口元や足先やしっぽを見つめます。この時、脳には別に仕事はありません。わたしの空想の中の犬よりも、今まさに眼前にいるその一匹のほうが、はるかにかわいらしく、ピュアで、ラヴリーです。

そもそも、「かわいい」っていうのがいったいどういうことなのか、わたしの脳は説明できない。そんなことに関わらず、わたしの目は犬にくぎ付けで、その犬のぴょこぴょこした動きが全身をあまりのラヴリーさで貫いてゆきます。「かわいい」しか言うことがありません。別に誰かに伝えたくて言っているわけじゃなく、言わざるを得ない。家から駅へ向かうわたしの世界に、突如到来したそのかわいさは、日常の予想範囲を超えています。ポストや畑や電信柱や塀を超えています(とはいえ、かわいいポストやかわいい畑もありますよね)。

かわいいっていうことは、想像を超えている、ということかもしれません。そしていつも突然にやって来ます。わたしは少しでも長く、世界に突然現れたかわいいに浸りたくて、たまらず「犬・・・」「かわいい・・・」と口に出しているのかもしれません。おでんの出汁のしみた大根をゆっくりと噛んでいつまでも味わっていたいように。

いずれにしても、晩ごはんのメニューがもっと潔く決められたら楽ちんだろうなあと思うのですが。