すきな歌

ときどき、どんなバンドが好きかとか、どんな映画が好きかとか、そういうはなしになると、あたまのなかの海を泳いで、冷たいところや生ぬるいところから、見つけたものや網にかかったものをたずさえて帰ってくる。そうして相手に返答するのだが、いつもほとんどを忘れている。「AやJ」と答えたとしても、BもFもKもLもXもある、のはわかっている ―ただそれがいまこのときに、出てこない、だけなんである。 岩の陰にいたり、魚にくっついて泳いでいたり、太陽のした甲羅干しをしたりしているたくさんの、たくさんの、好きな歌や好きな映画や好きな言葉や好きな絵たちがいるのである。

oasisに “She’s electric” という曲があって、わたしはこの曲がとても好きだ。まず、“She’s electric” という題名が好きだし、歌詞に、sister や mother や brother や cousin が出てくるのも好きだし、メロディは言うまでもなく好きだし、リアム・ギャラガーの声も好きだし、“She——is” っていう歌い方も好きだし・・・・・・、しかしながら、この曲を好きだということを人に伝えようとするとこうなる。
「She’s electric だって!ね!いいよね!」
じぶんで言っておいてなんだが、おそらくこれではなにも伝わっていないだろう。それなのに、相手の相づちが本心かどうかわかりかねるとき、心からの「いいね!」がほしくて、数回繰り返して聴かせる。横暴である。そして傍らでいちいち、「ここの歌詞!」「ここの発音!」「ここのドラム!」って合いの手入れるのである。迷惑である。この気持ちを共有したいという思いが強すぎて、相手の好みや疲れ具合やなんかに思いが及ばない。


今年の初春のころは、The Strokes をよく聴く期が到来していたのだが、“Reptilia” という曲のかっこいいギターパートを強制的に何度も何度も夜も更けてるのに聴かせもした。「ここ、ここ、ここ・・・!」とそのパートが来るたび(来そうなときに)に教える。うるさいのである。そしてじぶんは交感神経の興奮により眠れなくもなる。後先を考えもしていない。


梅雨のころ、ルート・ブリュック展を観たときも、わたしの身体中は、「好き」とさらにもっと言葉にならない何かであふれかえって内側から溺れかかっており、肺や心臓や腸やろっ骨はどこかに行ってしまったようだった。確認はしなかったけれど、となりにいたひともおんなじだったかもしれない。

なにか好きなものについて話すとき、言うことがほとんどない。「好き」しかない。「好き」を相手に伝えるために、「好き」を分解して分析して言葉にしていると、「好き」に追いつかない。「好き」に、その言葉では足りない。そうだとしても、だれかが積み上げて編み上げた「好き」についての言葉が、また新しい「好き」を連れてきてくれることは事実だ。

初秋のころ、神社の境内にざくろの実がなっていた。わたしはざくろの実の形や色や、枝へのなり方が好きで、せっかくなので木の下へ行ってほーっと眺めていた。そしてそのあと会った知人に「あそこにざくろの木があって、実がなってましたよ」と言った。まったく頭の大きな(かわいい)蛸みたいな形だぜ!ってな感じで。するとその人は「あぁ、ざくろですか。おいしくないですけどね」と言った。それでわたしはハッとした。あれは実だ。りんごや梨やぶどうと同じく、実である。実であるならば、食べてみて、おいしいおいしくないの判断がなされるのはごく自然なことである。わたしの場合、そのかたちへの思いが高じすぎて、味についてはいっさい考えもしていなかっただけであるし、そもそもじぶんにとってざくろといえばがあのかたちで、あのかたちが好きだからといって、相手がそうとも限らない ― のは、よく考えずともわかりそうなもんである。しかしまた来年になったら忘れてしまっている予感もする。

カフェでたまたま流れてきた音楽が、とくに好きなものだったりすると、こころのなかの広場に小さいわたしが何人も、どこからともなく現れて、「いいね」「いいね」って言いながら踊ったり歌ったり聴き入ったり歌詞を思い出したりしはじめる。見知らぬとなりの人にも言いたくなる。初めて聴く曲でもおんなじだ。みんな口や顔に出していないだけで、身体のなかでは、好きに溺れかかったり、好きをあいうえお順に並べたり、好きを矯めつ眇めつしていたりしているんだろう。電車でとなりに座っている人も、宅配便を運んでくれる人も、郵便局の窓口の人も、テレビに映る王族も。