スイスイ歩く(日記)

友だちとそば屋さんで待ち合わせをした。
すこし先に着いたので、先に座ってお品書きに目を通すものの、その縦書きの膨大な種類のそばとうどんのリストに、呪文を唱えられたヘビのようにぐるぐると尻尾を巻きそうになる。

やってきた友だちは、画材店の包装紙にくるまれた長い筒状のもの ― 太さは両手の親指と人差し指をくっつけて丸をつくったくらい ― を、スーパー帰りのネギ的に、青いかばんから飛び出させていた。

それがなにかはさておき、ほとほと降参しかけていたお品書きを見せると、キャベツをこつこつ食べてゆくしゃくとり虫のように、彼女はリストをじっくり読み込みはじめた。”ざるそば” と “もりそば” の違いも教えてくれるが、わたしにはそれがちっとも信じられない ― 海苔がのっているか、のっていないか、なんですって。この頼もしさのわけは、むかしそば屋さんでアルバイトをしていたことがあったからだそうで、彼女の住んでいた麺世界は、わたしのいた麺世界よりもずっと豊かだったのである。

天ぷらそばと鴨南蛮そばを食べる。
バッグから顔を出しているあの筒は、画材店で買ったいろんな種類の大きな紙がくるまれたもの、ということだった。

出汁にうっとりとして店を出、珈琲を飲みにゆく。コーヒー一杯

珈琲を飲んだあと散歩する。

あまりにスイスイと歩いているのですっかり忘れてしまうのだが、その間ずっと、彼女のバッグには太めの筒が入っているのだった。

それなりに重いしかさばるに違いない。それなのに彼女は筒についてすこしも不満を口にしない。そしてリュックをしょっているだけの気楽なわたしは、また筒のことを忘れる。

夜になり、彼女はバッグのなかから缶入りのお菓子を出し、「お土産に」とわたしにくれた。
ポケットに入るくらいの大きさではなく、手のひらほどのお菓子が2つ横並びで3段ぶん入って、包装紙に包まれた立派な缶である。バッグのなかには、いろんな紙を重ねてくるんだ筒のほかに、この缶も入っていたのだ。(もちろんそのほかにもいろいろ入っているに違いない。)

その缶入りお菓子も、わたしたちと一緒に散歩していたわけだけれど、端から見ているかぎり、彼女のバッグはちっとも重たそうには見えなかった。

なにか重たいものや長いものやかさばるものを買ったり持ち運んだりするとき、わたしの頭の中を占める言葉はほとんどこれである ― 嗚呼、早く家に帰りたい。
そのなにか重たいものを持つ腕がもう右も左もご免こうむりたいとなったり、なにか長いものが駅の床にこすれたり、なにかかさばるものの置き場所がなく身体に密着させるも一向に空間が足りない満員電車に乗ったりすることを想像して、先んじてブルーになってしまう。

そのなにかを持ったまま、そば屋に寄ってそばを食べ、散歩をするなんていうクールさ(しかも不満も言わずに)は、わたしにはまったく備わっていないのだった。重いときに「重い」と言ってしまう、その我慢のなさなら、わたしにはある。

彼女と別れるころ、またわたしは忘れていた ― 彼女は1日じゅう、あの筒と一緒だったのだ。一緒にあっちこっちへ行って、まるで筒なんて無いかのような軽い足取りだったのだ、ということを。

 

お菓子の絵

缶のお菓子とは別に、パッケージがかわいいというのでくれたお菓子です。