る昼下がりの帰り道、庭木を剪定中のおうちがあり、道にやまのようなみどりいろが溶けた雪だるまのようにもりあがっていた。キューピー人形の頭みたいなつぼみのついたさざんかの枝である。塀のむこうでは、ちょきんちょきんの音。すこし考えたのち、わたしは塀をのぞきこみ、「すみません」と声をかけた。はじめは当然、ちょきんちょきん音に紛れた。そこでもう一声。剪定ばさみの手を止めてふりむいてくださった赤い上着のお相手に、唐突に、「この枝を絵に描きたいので、すこしいただいてもよろしいですか」とお聞きした。「ああ、いいですよ」とおっしゃってくださったので、うれしく安心した。(なぜってあんまりに唐突でしたから。)

わたしはそこで片方の手に買い物袋2つ、もう片方の手にお花屋さんで買った孔雀草の紙にくるまれたものを持っていることに気がついたけれど、そこはなんとか工夫して、はさみで切り落とされたばかりのやまのようなさざんかをあれもこれもと拾って持ち帰った。塀越しにお礼を言うと、あかるい「はーい」というおじさんの声が返ってきた。

さて持ち帰ったはいいが、あまりにたくさんの短い枝であった。おまけに孔雀草もあった。

あっちもこっちも雨漏りしている家みたいに、あっちにもこっちにも花瓶や空き瓶を総動員して、水を入れて、さざんかのみなさんにはさぞかし窮屈に違いないけれども、当面をしのいでいただくことになった。

あれからそろそろ一週間がたち、あっちのつぼみもこっちのつぼみも、キューピー人形風の頭のてっぺんに紅色がさしてきて、それはそれはうきうきする。わたしのいい加減な生け方にもかかわらずみなさん、しっかり枝の先から水を吸って光を浴びて、生き延びてくださっていたわけなんだから、頭が下がります。

 

さてこの瓶は、醤油さしということで、数年前に松本に行って「陶片木(とうへんぼく)」というお店で買って帰ったものです。形が好きなので、醤油はいれずに棚の上に置いていたところ、この度のさざんかご一行来訪にさいして、一番ちいさな枝氏にぴったりでした。醤油さしなので蓋がついています。蓋を上からみると、レモンのようなかたちです。

 

「陶片木(とうへんぼく)」というお店は、陶器やガラスのお店で、ちいさいものからおおきいものまで、いろんな形の器や瓶が、とても美しく詩的に並べられています。本も置いてあります。それぞれが商品というよりも、ひとつひとつのものとして、存在感をもって心地よく座っているような空間です。お店を出るときは、お店に入るときより、ほんのすこしだけ重くなっているような感じがします。たとえばどんぐりひとつを拾った分だけ、のような、うれしさの分だけ。

 


この絵を描いているとき食べていた飴のはなし。

 

イタリアでなんの味かもわからず包み紙が気に入って買った飴。食べてみても、さっぱりなんの味かもわからず驚いた。
なんの味かさっぱり検討もつかないものがこの世にやまのように無限に存在しているという当たり前の事実に、うれしくなる。
なんの味に似ているとか、例えることはできても、その例えは例えにすぎない、たちうちのできない、なんの味だかさっぱりのわからなさ。

 包み紙に書いてある「ANICE」を調べたら、たしかに日本に暮らしているわたしには縁がなかったはずの原産地(東地中海沿岸、エジプト)。
古くからの香辛料とのことであった。
わたしが生まれるはるか昔から、この味の飴もあったのでしょうね。


Written by mariko