紙の薔薇を一本もらった。
友人宅からお暇する玄関で、5歳の男の子が背中に回していた腕をぱっと差し出し、紫がかったうすい青色の薔薇を一輪くれた。折り紙でつくった薔薇だった。茎はホイルのような質感のグリーンで、ダイナミックにぐるっと巻かれてところどころ裏の白地が見えており、小さな手がそれをねじって茎にする様子が思い浮かぶ。
その1時間くらい前、かれはこう言った。
「あれ~?つくえの上に、青い折り紙なかったー?」
あった。正方形の青い折り紙がいちまい、手つかずのしわ一つない状態で、クッキーやコーヒーの並ぶ座卓のうえに。しかしあたりを見渡せば、様々な電車、機関車、それらが走るレール、橋、駅、トンネル、それらを眺めることになっている動物たちやトトロ、バスやブルドーザーや救急車など様々な役割を担った車が描かれた図柄のパズル数種(一種につき2回は完成させる)、大切にしている鉱物コレクション(かれ曰く「宝(たから)」。気持ちはよくわかる)、これまで集めてきた駅や植物園や観光地のスタンプ帳、乗り物のカルタ、乗り物の絵本、パーツが山のようにあって小さくて複雑すぎてやる気の起きない海外製のブロック(本を開いて「これをつくろう」と誘われ、それをつくっているのを横で見守るのがわたしの役目)・・・といった膨大なものに取り囲まれて時を過ごして疲弊していたわたしは、机の上にある一枚の折り紙になんの感慨も沸いていなかったのだ。目には入っていたに違いないのだが、脳はその情報(「机ノ上ニ使ッテイナイ折リ紙一枚アリ」)を特別注目すべきものとしては扱わなかったらしい。
「折り紙ね、あるね、これね」
と、声と精神の残り香のような返答をした。返事を聞いてから、かれがその折り紙を持って行ったことは覚えているが、そこでまたわたしの脳は「男ノ子、5歳、折リ紙ヲ持ッテユク」という目からの情報を、簡単にいえば、スルーした。何を折るんだろうか、という問いも浮かばないほど、わたしは遊び疲れていたのである。
(あれか!)と、玄関でようやくわたしは思い至った。あの青い折り紙で、かれはこの薔薇を折っていたのだ。
それに記憶を辿れば、約2時間前、棚の上にあった紙製のグリーンの棒状のものを見せて、指先でくるくるまわしながら、
「これ、なにかなあ~?」
と言っておられた。たぶんそのときわたしが言ったのは、「棒かな」。驚異の考える力のなさ、あるいは思考放棄および面白みのなさである。そんなひどい回答も受け入れてくれたのだろう、5歳のかれの懐の深さ。あの “棒” は、茎だったのだ。
紙の薔薇は、あの一枚の折り紙からつくられたとは思えない ― 紙の折り曲がりやしわが、花びらの入り組んだ重なりを想像させ、ひとつの花としての立体感と陰影を生みだしていて、ぐるり一周して眺めるのもたのしい。そしてその薔薇の “底” に隙間があって、茎が差し込んであるのだった。
これを渡すという計画のもと、2時間前のかれはまず茎の部分を見せ、1時間前にはさらなる驚きを演出するために、机の上の手つかずの折り紙の存在を確認させた、のだろう。手品師が、観客に空っぽの帽子のなかを見せたあとで被り、そこから鳩を出して驚かせるように。なんていう、お茶目なたのしい心遣いをしてくれていたことだろうか。
それだっていうのに、いちおう全力で一緒に遊んだからとはいうものの、思い返せばところどころ、しかも(マジックとしては)肝心な時に、うわの空で返事をしてしまっていたことに、「ごめんね」という気持ちと、「しかしまあ、数時間にわたってずっとハイテンションなきみについていくので精一杯だったんだ。悪気はなかったんだ」という思いもあり、「あの赤ちゃんがこんなすてきなプレゼントをしてくれるようになったなんてなあ・・・(果たしてそのあいだ、わたしはなにか成長したのだろうか)」という感慨と疑念も沸き、「わたしは今から帰るけれど、友人はこれからかれらをお風呂に入れて寝かしつけて朝になったらごはんをつくって着替えさせて・・・・・・それが毎日毎日・・・・・・to be continued.」と尊い気持ちもあらためて深く響きわたる。
「あの折り紙で作ってくれたんだねえ!作ってるの、ぜんぜん気がつかなかったよ!」
と言うと、ふふふと笑う名手品師。わたしがエレベーターに乗るまで、玄関のドアを開けて手を振ってくれている手品師。
薔薇を持ったまま駅へ歩く。こんなことはもうないかもしれないな、と思いながら。