タクシーを降りて少し歩くとコロッセオが見えた。
タクシーに乗ってコロッセオに行きたいと伝えてコロッセオ付近に連れて行ってもらったにもかかわらず、じぶんの目にコロッセオが見えていることが信じられない。よい香りに咲きほこる花に囲まれた階段をくだり、古代の闘士風の格好をした男性たちの間を通りぬけ、ミネラルウォーターやコーラをすき間なく並べた売店の手前で右に折れ、わたしはどんどんコロッセオに接近する。接近している目的は、コロッセオのなかに入るためである。一切ほかに深い理由などない。
建物というのは、基本的には人が何かの目的で使用するために手間暇かけて建てる物のことなんだろうけれど、それにしても2000年前に建てられた円形闘技場にさえもわたしたちは入ることができるのだ。現代においてコロッセオは、血なまぐさい闘技や処刑が行われそれを人々が眺める場としての役割ではなく、かつてそういう役割を担っていたことがあることをその身でもって人々に伝えるという役割を担っていて、入場料を払った観光客や売店で働く人や研究者やテレビレポーターや映画関係者など無数の現代っ子たちを己のなかに招き入れている。なお彼の長い歴史のなかでかつて闘技場であったころ、一般の市民は入場料を払う必要はなかったそうであるが、はたしてじぶんはその時代にたまたま生きていたとしたら、いくら無料とはいえいそいそと見学に出かけて行ったであろうか。ご近所さんに熱心に誘われるなどして一度は行ってみるも、いよいよなにか大切な忘れものをした風の迫真の演技でもって席を立ち、歓声が広く高い空に向かって弾け飛ぶその丸い建物から限りなく離れて、離れるために歩きすぎてサンダルの紐が足の甲に擦れて痛く赤くなってしまったかもしれない。とりあえず紐と足の甲の間に葉っぱかなにかを挟んで応急処置をしたかもしれない。あるいは、一日中拳を突き上げて熱狂したかもしれない。どうであったかはわからないが、今のわたしは、騒がしいのは苦手である。
あんなにすぐ近くに見えているコロッセオには、はたしてすぐには入ることができなかった。
往時には何万人という人々が入れた大きな建造物なので、チーズのようにその壁が採掘されてきた過去があるとはいえサイズはほとんど変わっていないだろうし、入り口に行きさえすれば笑顔でなめらかに入場できると思いこんでいた。思いこみというものは、それ以外の可能性をほんとうに見えなくしてしまうもので、見えなくなってしまっていた可能性としては、「コロッセオはとてつもなく有名な観光施設であるから、とてつもない数の観光客が訪れるため、入り口はじつに混雑するであろう」というものが筆頭に挙げられる。そして実際にそうであった。
そもそも、コロッセオの外にいくつかの列ができていて、比較的長い列と短い列とがあった。というわけで、いつもスーパーのレジでやっているように勘を研ぎ澄ませて短い列に並んでおいた。長い列の人たちは、団体旅行かなにかで受け付けが別の窓口なのだろう、という具合に解釈していた。間もなく、首からカードを下げた背が高くて白髪交じりの金髪のきりっとした女性が、前方から順に声をかけながらやってきた。人々は、イエスとかノーとか言っている。なかには別の列に移動してゆく人もある。そしてうっすら聞こえてきたことには、「チケットをすでに持っていますか?」という問いかけをしているようである。わたしたちはチケットを持っていなかった。わたしたちのうしろの眼鏡をかけた女性もチケットを持っていなかった。チケットをこれから買うつもりで並んでいるつもりだったので、チケットを持っているかどうかの問いの意味もわからなかった。もしかしたらわたしはすでにチケットを持っているのだろうか。そうこうしているうちに、イエスノークエスチョンの順番がきて、わたしたちはじぶんの記憶に正直に「ノー」と言った。すると女性は、少し離れたところの、いまや腸のようにいくつもの曲がり角をもった長い行列を指差して、「チケットを持っていないのなら、あちらの列に並び直してください」と伝達した。いま並んでいるところのこの列は、チケットをすでに持っている人のための優先入場の列であることが、正式に確認できた。どうりで列が短いはずである。しかしそのチケットをすでに持っている人たちというのは、そのチケットをどこのチケット売り場で購入したのだろう(1)。この短い列に並んでいた時間に加えてこれからあの蛇行する長い列に並び直して待つ時間のことを思うと、少しでも移動の時間を縮めるためにタクシーに乗って浮かれていた30分前のじぶんに合わせる顔がない。そしてわたしのうしろに並んでいた女性は、はじめに「チケットを買う列ってここでいいんですか?」とわたしに尋ねてきた人であり、「たぶんここでいいと思います」と述べたわたしの言葉でわたしのうしろに並んでいたのだ。同じくイエスノークエスチョンでノーと答え終わった彼女にわたしは謝った。長い列へ移動しながら彼女は、「大丈夫。それにしても仕組みがよくわからないものですね」と言ってやさしかった。
短い列から長い列へコピー&ペーストされた心細い文字のようなわたしたち。なかに入れるのはまだまだ先だとはいえ、眼前にあるのは古代ローマのコロッセオである。コロッセオであることだよ!それなのに、わたしの頭のなかのその感激をつかさどる部分が、まだまだ列が長そうだということで、ひょっとすると一旦休憩に出てしまったのかもしれない。また、先ほど階段の上から眺めたのとちがって至近距離のコロッセオはじつにたいへん大きいので、全体が見えないために、わたしはおかしなことに少しコロッセオに慣れてきてしまっていた。行列はコロッセオの日陰のなかにあった。コロッセオの日陰です!そして行列はコロッセオのなかに入った。わたしは鞄からノートを出してお絵描きをはじめてしまった。
左の絵は、コロッセオ一階の壁にくりぬかれた高いアーチの向こうに見える高台の、先ほど横を通り過ぎてきた売店や塀に寄りかかる人々や、まぶしい青空(一枚目の写真の場所)。薄暗くひんやりとしたコロッセオのエントランス部分から見た外は、光があふれてみずみずしくて、まぼろしのようだった。
右は、前に並んでいたアジア系の女性で、ラベンダー、バイオレット、マゼンタピンクといった徹底的な同系色のコーディネートが素敵であった。
三枚目の絵には、いちおうコロッセオの壁とアーチが描いてあるが、その大きさがまったくちっとも恐ろしいほどに伝わってこない。
コロッセオ氏としても、このふにゃふにゃした描写と迫力のなさには不服であろうが、さすがに2000年も生きて酸いも甘いも噛み分けておられるであろうから、なんてことないはずである。よくもまあ下に「colosseo」と書き入れたものです。記念だね!
お絵かきをしているとそれは楽しい。実はまだチケットは買えていないのだがここだってコロッセオの中には違いないのだし、楽しい。とはいえ、そろそろ自由に動きたい。そうしてどのくらい待ったかは定かではないけれど、無事にチケットカウンターの前にやってきた。窓の向こうに金髪をひとつに束ねた黒い長袖の男性がいて、となりの窓口がやけに騒がしいので、彼は両耳に指を突っ込むジェスチャーで「ぜんぜん聞こえないよね!」という顔をしてから、「それでチケットは何枚ですか?」と本題に入る。
2枚です。どうぞ、よろしく。
(1) コロッセオの入場券は、すぐそばのフォロ・ロマーノの入場券と共通です。その日にかんしては、フォロ・ロマーノのチケット売り場は気持ちがいいほど空いていました(おそらくほとんどの人がコロッセオの行列に並んでチケットを買うため)。状況は随時変わると思いますので、ご参考までに。