【イタリアのノート】カフェ・グレコ

いつものことで特になにも考えていなかったうえに、ローマについてほとんどなにも知らなかったために、着いてからが大変であった。いざ着いてみて、うそみたいに背の高い木々に囲まれた道路を走るタクシーの窓から、あ、遺跡だ、あれも遺跡だろう、あれも間違いなくなにかの遺跡だ・・・という感想ばかりが口からとめどなく出てきて、ときどき運転手さんがあれはなんだこれはなんだと教えてくれるうち、それが100%イタリア語であるのでごくたまになんのことだかわかる。たとえば「Terme di Caracalla」は、ベストセラー漫画のタイトルおよび世界史でやけに覚えやすかった皇帝の名前から、カラカラ帝のお風呂の跡地、と推察した。「カラカラ帝ですよ、カラカラ帝!」と連呼していた世界史の先生の顔まで浮かぶ。そしておそらく私はあのときの先生よりも年上になった。当時、先生のことはすべからくいわゆる大人種族だと決めつけていたんだけれど、自分は年を取ったからってどうやらいまだその種族に入りきれていないようで、まあ、そういうものなんだろうなあと、よく聞く話に思うけれど、でもほんとうにそう思う。そして、カラカラ帝浴場跡が具体的にどんな具合なのかはわからぬまま、窓からなまあたたかい風を浴びながら、それにしてもじぶんはローマにいるんだなあ今、という思いが浮かぶも、それはぜんぜん現実とも思われないのであった。世界史の授業中に窓の外に見えていたのは山と空、そして今タクシーの窓から見えているのは、別の惑星なんじゃないかと思うほど背の高い木々と別の時代なんじゃないかと思う巨大なうすい砂色の建造物たち、そして渋滞だとか、なぜだかわからないけど車道を歩いている男性など。

ヴィットリア教会2
ベルリーニの『聖テレジアの法悦』(17世紀)は、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会にある。
ローマに到着して3日目、朝からパンテオンに行き感激し天井を見上げすぎ、すぐそばのカフェでクッキーを食べてカフェラテか何かを飲み、ウェイターの青年がモナコ公国のグレース・ケリーの孫のピエールさんに似ていて、コロッセオに行きチケットの行列に並び(チケットを買うのにあんなに時間がかかると知らず)、向かいのフォロ・ローマノを歩いて歩いて(広い!)、お腹が空いてピザみたいなものを食べ、地下鉄に乗ってローマの休日で有名な真実の口へ行って行列に並んで写真を撮ってもらい、そのあとまた電車に乗ってテルミ二駅で降り、やや道に迷って辿りついた。教会の入り口にジプシーふうのおじさんが立ちはだかって金銭を要求していた。

『聖テレジアの法悦』は、その前日に見たミケランジェロの『ピエタ』に比べて遠くて高いところにあったため、なかなかよく見えない。
そのうち日本人の団体旅行がやってきて、教会の扉から迷いなく直進ののち彫刻の正面に立ちどまり、すさまじい早さで添乗員より彫刻についての説明があり、その間絶え間なく個々人の撮影が静粛に執り行われ、そしてあっという間に去って行った。あのスピード感でもって計画通りに観光すればわたしの3倍くらいの量でいろんなものが観られそうであった。なのにわたしは教会の椅子に座って天井を眺めたりしていた。

ヴィットリア教会

観ればどうにかなるというものではまったくない。
全体のことなんてぜんぜんこれっぽっちもわからない。
余白なんてぜんぜんない。

うしろに、さっき教会への道を尋ねてきたご夫婦が座っていた。人のよさそうなご主人はピンク色のポロシャツを着ている。テルミニ駅を出て道に迷っていたわたしたちに、まず写真撮影を依頼し、次にこの教会への行き方を訪ねてきたご夫婦、ほんとうに申し訳ないが初めはぜったいにあやしいと思っていた。写真撮影を依頼している間や道を聞いている間にスリをする手口があると何かに書いてあったからだし、どう考えても、道を聞くならおなじく道に迷っているわたしたちよりもほかに適切な人がいそうだったからである。とはいえ、写真の出来を確認し、教会への道を尋ねた彼らは、今わたしたちと同じ教会で椅子に座っている。みな無事に到着したわけです。そしてわたしは飽和した頭で次にどこに行こうかなと考え、どういう回路がどうつながったのかわからないのだが、スペイン広場近くのカフェ・グレコに行くことにした。
おそらくガイドブックに載っていたティラミスの写真を思い出したのだろう。

ティラミス

カフェ・グレコは、1760年創業で、ゲーテやアンデルセンやジョン・キーツといった人々もここへ来たのだという。なんてこったい。
そういえば『ブライト・スター』(2009)という映画のなかで、詩人キーツはイタリアに病の療養に行っていたがあれがスペイン広場のすぐそばだったそうである。そしてキーツを演じたベン・ウィショーは『情愛と友情』(2008)のなかでは貴族で、ヴェネチアで派手にやっていた。

下記はローマを描いた銅版画を前にゲーテが語ったことをエッカーマンが記したもの。
---その世界的な大都市の絵を、私たちは目の前に見た。(・・・。)「見てごらん。」とゲーテはいった、「何というすばらしい場所だろう!ローマ全市が君の目の前に広がっているし、丘がとても高いので、南も東も街を見渡せる。私はよくこの別荘にいて、よくここの窓から眺望を楽しんだものだ、街がティベール河の向岸で東北にむかって先細りに伸びているこの地点に、聖ペテロ寺院があり、またその近くにヴァチカン宮殿がある。ほら、王は、彼の別荘の窓から、河を越えて、これらの建物の眺めをほしいままにたのしめるわけさ。ここにある長い道路は、北側から市に入っているが、ドイツからつづいているのだよ。これが、ポルタ・デ・ポポロだ。この門を入って最初の通りの一つにある角の家が、私の住んでいたところだ。現在ではローマの別の建物を私が住んでいたところだと言っているそうだが、それは正しくない。だか、そんなことは大したことではないさ。そんなことは、結局のところどうでもいいことだし、伝説は、うっちゃらかしておくにかぎるさ。」 (エッカーマン著『ゲーテとの対話(中)』、山下肇訳、岩波文庫、1968年)

カフェ・グレコの店内は細長く、各部屋ごとに壁紙が違い雰囲気が多彩であった。それで奥へ奥へ歩いて行きながら、席を選んだ。一番奥の部屋の壁に備え付けられた横長の椅子に座る。ウェイターの動きや人の動きや内装や通路がよく見えたからだ(きみは探偵かね)。入ってきたのは右側の正面入り口だが、この一番奥の部屋の左側にも入り口があり、店の外から音楽が聞こえる。そしてわたしの足は棒のようであった。
わたしたちのテーブルを担当してくれたのは金髪のショートヘアの女性で、みなと揃いの白シャツに黒いベストと黒いずぼんを履いて、銀色の丸いトレーを手に非常にてきぱき動く明るい人だった。

グレコ

▲壁際の席から店内を見たところ。床の寄木模様が素敵。となりの空間とはアーチでくりぬかれた壁でつながっている。
その境目にいるサテュロスおじさんと目が合ってばかり。笑っておられます。

▲カップにもソーサーにもグラスにも、ミルクピッチャーにも砂糖の包み紙にもペーパーナプキンにもお店の名前が入っています。
オレンジと茶色がテーマカラーのようです。

▲向かって右側の入り口方向を描いたところ。一番奥が正面の入口。
雰囲気の違ういろんな部屋があり、壁には所狭しと額がかけてあります。
しましまの壁紙の部屋には椅子がなかったようなので、テーブルは立ち飲みのためのものでしょうか。
この店内を一直線の通路をてきぱきしたウェイターが行ったり来たり。

わたしは棒のような足であったこともあり色鉛筆を取り出してスケッチをしていたが、ノートパソコンになにやら打ちこんだり電話をかけて仕事をしている人や半袖半ズボンで爪を噛んでいる人、スマートフォンをスクロールしている人など、1760年創業のカフェだからといってなにも全体の90%くらいが19世紀の本を読んだり作曲に頭を悩ませていたりめがねをかけてむつかしい議論をしているというわけではなく、店内のそれぞれの過ごし方はごく自然なものであった。サテュロスの像は絶えず笑みを浮かべ、ウェイターは通りに面した席へと飲み物を運ぶ。
あちらの部屋では窓辺の赤いソファに光がさしている。次は誰が座るのかしら。

椅

 

▲右は、カフェグレコのかつての店内の様子(おそらく銅版画)が描かれたレシート入れ。さまざまな角度に傾く山高帽たち。

▲ひっくり返すとレシートが入るポケットになっています。よい記念になりました。
レシート氏によると、ホットコーヒーとアイスコーヒーがそれぞれ8ユーロ、ティラミスは10ユーロだったようです。