ヴェネツィアに着いて2日目、歩いてサン・マルコ広場へ行く。
サン・マルコ広場はだだっ広く、人がつくったとは到底思えない同じ形の窓や柱が無限に繰り返されるようにくっついた建物群にぐるり囲まれ、鳩がたくさんおり、そして何にも覆われていない頭上に空の様子が非常によくわかった。これは雨が降りそうだ。
わたしは「雨が降りそうだ」と感じるとき、わりと得意げになる傾向があり、それはおそらく、勘に基づく断定というふるまいを美化しているためと、もしかしたらとおいとおい昔に今の何千倍も勘が必要であったころのこと、いつかのわたしはなにかの到来(獣の群れの襲来とか)を勘でもって言い当てて役に立ち、誰かから褒めてもらったことがあるのかもしれない。
さて、その広場にいた人のほぼ全員が予感したであろうとおり、わたしの勘もついでに当たって、ヴェネツィアに雨が降りはじめた。
そして勘が外れたところは、雨はただ降るだけでなくて、天から降ってくる勢いをどんどん増していったという点です。
ほそい道の両脇に店やホテルが立ち並ぶ通りを、なんとか軒下をつたって移動できないものかと忍者的な発想でもって挑むも、忍者が大量発生しているのに対して、もともと気持ち程度でしかない軒下がだんぜん不足している。ヴェネツィアは大量の木の杭を海の底に刺しに刺して基盤にして築かれた都市だそうだけれど、両側の建物がせり寄ってきてそろそろパチンと幻に消えてしまいそうな細い道の上では、勢いよく降りてきたものの地面に吸い込まれるわけでなく、人工の島の石畳の上で行き場を失った大量の雨粒たちが、川でもつくる相談をしていそうである。
左写真のホテルは、軒下で身を潜めていた際に反対側にあったもの。フロントの女性が電話対応をしているうしろに、縦型に小分けされた棚がある。おそらく各部屋の鍵をしまうものであり、場合によっては配達された封筒なんかも差し込むのであろう。棚好きとしては、土砂降りのにっちもさっちもいかない忍者業務執行中であっても、使いこまれた棚に出会えて幸せであった。
軒下移動の途中、もともと行きたいと思っていたアクセサリーの店を見つけた。
風のような速さで、眼鏡をかけた女性がガラス戸の下のところに「いま不在です」という紙を設置し、クリーム色のカーテンをさっと閉めて、店の奥へと消えた。消えていない。いる。クリーム色のカーテンは透けているのでなかに人がいるのが分かるし、あれはさっきカーテンを閉めた女性だ。それにおそらく開店したばかりだろうに、なにか突然いやなことでもあったのかしら。するともう一人の忍者が「ひどい雨だから、雨宿りのために店に入られて、床を汚されるのがいやなんでしょう」と言う。わたしの鈍った直観が「ふむ、それは正解だ」と告げる。いやなことがあるたび店を閉めていたらいつだって店は閉まっている。それよりもいやなことを避けるために彼女はカーテンを閉め、朝なのに店を閉め、居留守を使っているのであろう。わたしはほんとうにその店を見たいと思っていたのだが、カーテンを閉めに来たときの女性の雰囲気がなんとも怖かったので、まあ、いいかそのうちで、ということで通り過ぎた。
それで、近くの仮面の店に入った。雨宿りのためではあるが、なにか気に入った仮面と出会えば購入するつもりであった。とはいえ、現状どこもかしこも大雨のヴェネツィアの文脈的に「雨宿りに来たんだなこいつは」と思われることが必至であるため、わたしはわりと積極的に店員に質問をした。その結果、仮面というものが割合高額(数万円)であることがわかり、困った。そこで何食わぬ顔をして小物の棚へ行き、「触らないで下さい」という紙が首がどの角度を向いていても目に入るところに塩コショウみたいに置いてあるので、指をさしてまた色々質問をし、「これは何ですか」「それは置きものです」「あー、置きものですか、へえ」という感じで、会話はすぐに終わり、ようやく店内に別の客が入ってきたときはほっとした。
そして購入したものが下の写真のものである。
勘の鋭い忍者には「どう考えてもいらないと思う」と言われたが、わたしはこれを買ったことについて一切の後悔がない。
これは何ですか。それは置きものです。
▲絵の形にくりぬかれた木に絵が貼りつけてあります。
こういうものがたくさんあり、ジョン・テニエルが描いたうさぎや落下していくアリスや、色々ありました。テニエルはイギリスの人だけれど。
帰国してやっと気がついたのは、この無理な体勢はひょっとして「R」なのではないか、ということである。
雨が小ぶりになってきたところで一旦ホテルに戻って休憩した。
一旦ホテルに戻って休憩する、という行為につねづね憧れていたのが、雨のおかげでついに実現した。家を出るとき急に思い出して防水スプレーをかけておいたスニーカーは、きっと明らかに防水スプレーの効果があらわれているようでそこまでひどいことにはなっておらず、たのもしい紫色であった。折り畳み傘をリュックに入れたり、髪の毛を乾かしたり、靴下を履き換えたり、一旦ホテルに戻ってできることはたくさんあるのだった。できないこととしては「夏は運河に虫が大量発生するので開けないでください」と書かれた窓を開けられないことが筆頭に挙げられる。顔をくっつけるようにしてのぞけば、窓から小さな運河と小さな橋が見える。
雨が上がってから日差しはたくましくなる一方で、目的なく歩くことが好きなわたしは目的なく歩き放題であった。ときどき水上バスに乗る。陸に着いたらまた歩く。紙雑貨やシーリングスタンプを売っている店があちこちにあり、あるお店ではとても威勢のよい夫婦が、ある店ではわりと色々なものがうず高く積み上がったなかで老婦人がひとりで接客にあたる。あちこちに橋があり、橋の終わりにくっつくようにまた建物があり、窓から店のなかが見え、袋詰めされてリボンのついたクッキーや仮面の飾りのついた瓶が並んでいる。見上げれば二階もすぐそこ。そしてまた狭い道。曲がると小さな広場があって教会があり、階段に座って絵を描いている少女が2人いる。今度は磯の匂いと雨の匂いのまじった薄暗い通りを進む。明るいところに出て、金色の額がたくさん道にはみ出した額装屋をのぞくと、白い作業着をまとった男の人が金色の天使像や丸や四角の額に囲まれ仕事中。
道にはもちろん迷うだろうけれど、だいたいのところはなんとかかんとかつながっているんだろうなあという気分。橋と道と運河と建物と人が。
これはアカデミア橋からの眺め。アカデミア美術館に行くために水上バスに乗って「アッカデミア」というアナウンスで降りたら、すぐそばにある橋である。
すぐそばにアカデミア美術館もあったようなのだが、これまた好きな方向に歩いたりスケッチをしたりした結果、美術館に辿りついたのはおそらく一時間半後くらいであった(18時半まで開館)。
この橋からの景色はぜんぜん飽きることがなく、海の色がウフィッツィ美術館で見たボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』の海の色とまるでおなじに見えた。水色にちかい、うすくやわらかなエメラルドグリーン。数日前に『ヴィーナスの誕生』を観たとき、透明なエメラルドグリーンの海に吸い込まれるようにじーっと見て、べつの部屋に行ってはまた戻ってきてじーっと見た。しずかであたたかい、大好きな色。写真で見るのとぜんぜん違うのはそりゃそうなんだけれど、海の色はほんとうに違った。
その海の色と、よい天気のアカデミア橋から見た海の色が同じ色に見えて、500年くらい前にボッティチェリも天気のよい日の午後に、橋の上かどこかから海を見て、その日の海のその色を覚えたのかしら、と思った。
材料はとてもとても身近なじぶんとそのまわりにしずかに何も言わずにある。
海から塩をつくる人もあれば、魚を釣る人もあり、船を浮かべる人もあり、潜る人もあり、その色を描く人もいる。