木の絵

日なたの来訪者(日記)

窓際の壁を小さい蜘蛛が歩いておられ、外に出ていただこうと窓を開け、ハガキで仰いで風を送る。サッシの溝のさらに深い溝のあたりで蜘蛛を見失い、ふと足元を見たら床(窓から25cmほどのところ)に蜂がいた。蜂は、床にぺたりとはりついて、人で言うならば、腕立て伏せの “伏せている状態” のポーズで、息も絶え絶えという風に見えた。しかし(よくわからないが)、”死んだふり” をしているということも考えられる(するのかどうかわからないが)。ぱっと飛び上がるかもしれない。

木の絵

以前にもこの窓辺で蜂に出会ったことがある。ある7月の昼下がり、かれは棚とカーテンの隙間からとつぜん登場し、羽音をブンブン鳴らして、はなから勢いづいていた(真意はわからないが)。わたしはおののいた。こわい。え?今日って、とつぜんに家のなかで蜂と遭遇するっていう日だったの?黒と黄色の縞々も、身体の節ごとのくびれも、羽音もこわい。顔に至ってはこわくて見られない。目を合わせたらたいへんだ、という感じ。こわさの理由って、身体の大きさじゃないのだ。
親しみ深き我が家がいまや蜂の神出鬼没スポットへと変貌し、くつろぎとか昼寝とかそういうものとは1000キロ離れてしまった。

ただ家のなかから出てほしいだけなのだけれど、ひとりでブンブンと対峙するこわさのあまり計画はどんどん壮大となり ―― 人の手を借りたい。蜂と扉を隔てた別室にて、駆除会社や自治体のホームページを可及的速やかに、かつ静かに読み込むのであった。
前者は約一万円の費用がかかり、後者の出張駆除は無料だが、「該当の種類のハチであること」が前提で(説明文に続く写真もこわい)、かつその 巣 が “該当の場所(屋外につくられた巣のみが対象で、例えば屋根裏などの「家のなか」(!)は対象外)” に見つかっていなければ出張してくれないという。部屋のなかの一匹では無理な話である、そりゃそうだ。ブンブン。
そして「こわい」については揺るがないけれど、一万円の出費っていうのも非現実的である。もしも駆除会社の人に来てもらって一万円を払ってこの一匹の蜂を部屋の外に出すことがあるとしたら、それは夢のなかでの出来事であろう。また別の夢のなかでは、わたしは巨大な蜂の巣から追い出される小さな人間である。
挨拶しかしたことのない隣人が、実は蜂捕獲の名人だったりしないかな。「今、ブンブンって音が聞こえたんですが?」って、ものすごく耳が良かったりしないかな。考えた末、「こわい」をなるべく身体の奥に押し込めて、勘で黒のダウンジャケットを着(夏なのに)、毛糸の帽子をかぶり、マスクをし、なんだかそれから先はよく覚えていないが、窓を開け、カーテンとビニル袋か何かを駆使して蜂に外出していただくことに成功したのだった。窓を閉める ー いつもしている動作だっていうのに、そのときの晴れ晴れした気持ちといったら。
しばらくたって冷静になって調べてみると、相手を敵とみなした場合、蜂は濃い色の部分を狙って刺してくるそうなので、黒のダウンジャケットを着たのはちっとも好手ではなかったようだ。

しかしその後も、蜂が一匹でベランダにやって来てはブンブン調べごとをしているように中空に滞在する日々が続き、その度ごとにわたしの心は縮み上がって洗濯物を干すどころではなくなり、晴れ晴れ気分なんてものは早々に曇ってしまった。あんなにじっくりと窓を観察して、かれにはいったい何が見えているのだろう、うちのカーテンのほかに。これはひょっとしてどこか身近なところに巣があるのではなかろうか。管理会社に電話してみると、調べてみましょうということになり、その結果、巨大な巣が見つかったのであった。入居者のいない部屋のベランダの給湯器のなかから。

呼び鈴が鳴り、玄関を開けると、樹齢1000年くらいの巨木の根元または初心者が見様見真似でつくったバームークーヘン、またはビートルズの『Yellow Submarine』のロゴのような、有機的かつ壮大な、言葉を失う、黄土色や茶色のグラデーションの構築物=蜂の巣 を袋に入れて持った男性が、非常に誇らしげに立っていた。べつの時代や場所でも、その日の獲物を集落に持ち帰って誇らしげに見せる時にはきっとこういう表情になるよね、という顔だった。蜂の巣関係に慣れているのか無鉄砲なのかわからないが、シャツにネクタイを締めた管理会社のかれは、一応軍手をして、網のついた麦わら帽子を被るという、ふしぎな折衷様式をしていた。蜂たちは気絶していると言う。

「しばらく使われていない給湯器のなかって、暖かいし、外敵も来ないし、巣づくりにはうってつけなんでしょうねえ」

給湯器のなかって、こんなに大きなミクロ世界が新たに作られるほどの広さなの?そしていったいいつの間に?どんな材料で?
わたしは唖然とした。

あのときの蜂とは明らかに様子が違う、今日の蜂。おののきが少し落ち着いて、遠巻きに見ていてもほとんど動かない。たぶん、これが浜辺の亀だったら、浦島太郎が助ける感じの元気のなさ。たまに脚を動かすのだけど、動作がゆっくりで、けなげである。黄色と黒の縞模様も、以前の蜂とは違って、こっくりとしたやさしい色合い(前回のかれは、カラーコーンのような非常にくっきりとした縞模様であったし、手足も長くて小顔だった気がする・・・はっきり見ても、覚えてもいないのだが)で、身体もなんだかふわふわしている。一人称は「ぼく」か「わたし」であって、「俺」でも「わし」でもなさそうだ。

「こわくない」

わたしのなかのわたしが言った。しかしながら出会って間もないこともあるし、いきなり家のなかにいらっしゃるとやっぱりちょっとこわいんである。

少し動きはじめたすきに、身体の下に紙を滑り込ませようとしたら、かれが紙に掴まって魔法のじゅうたん状態になったので、そのまま窓の外へ出したのだが、サッシのところで落っこちて、またしばらくその溝で、ちっとも動かなくなったりときどき脚を動かして段差を乗り越えようとしたり、二本の脚をサッシに掛けたままのポーズで止まったりしている。たしかに今日はいい天気で、この窓辺は暖かいけれど、かれはどうしてここへ来たんだろうなあ。

30分ほどして窓辺へ行ってみると、蜂はいなくなっていた。飛んでいくことができたのだろう、たぶん。冬だけれど、どこかの草むらで花の蜜に巡り合えますように。あるいは、行きたかった場所へ行けますように。還りたいところへ還れますように。

木の絵

ある夏にひとつの巨大な巣はわたしの密告によって滅びたのに、一匹の弱った蜂の無事を願うわたしはまったく勝手なものである。まったく奇妙な不気味な生き物である。