道の黄色い葉っぱ

シュークリームが食べたい

三ヵ月に一回くらいの頻度で、「シュークリームが食べたい」波が訪れる。その声はわたしの胸のあたりや額の奥あたりから聞こえる。はっきりと「シュークリームが食べたい」と言っている。

それでシュークリームを食べることもあれば、近所のケーキ屋のサクサク生地のシュークリームが売り切れていたり、スーパーでシュークリームが売っていなかったりして、エクレアを食べることもあるし、なんにも食べないこともある。

雨上がりの、道の黄色い葉っぱ

シュークリームとやらをいつ知ったのか思いだせないが、生まれたてのころにその声が所望したのは母乳やミルクだったのだろうか。飲みたくて飲みたくて、日なたに寝っ転がったまま泣いたりしたんだろうか。

たとえばシュークリームのない時代や国に生きていたとして、身体の芯から食べたくなるものってなんだろう。茹でた甘いぴかぴかのとうもろこし、ほくほくのお芋、おばあさんが作ってくれるアップルパイ、ジャムを一口、熟れたいちじくの実、ひとかけらのパン、持たせてもらったおにぎり。そもそも、そもそも、なにかを食べられるということ自体が大きな大きな恵みであるということ。

シュークリームを食べなくても生きていける。数ヶ月に一度の「シュークリームが食べたい」は、育ててもいない獲って来てもいないお米や魚や卵や野菜を食べることのできているわたしの、たんなるわがままなのだろう。わがままを言って、それが叶うかどうかを、わたしのなかのだれかは確かめているのだろう。

縄文時代のじぶんにも、古墳時代のじぶんにも、戦国時代の、江戸時代の、明治の、大正のじぶんにも、病院の窓のそばのベッドで眠っている祖母にもありがとうを言いながら、シュークリームを食べる。繋がれたいのちの口を開けて。

冬の花壇