銀の指輪

 
棚を片付けるともなく片付けていたら、そこにあるのは知っていたのだが奥に直径10センチくらいの丸い空き缶があり、引っぱり出してみたら、いくつかのとりとめないものが入っていた。
 
一つは、マグネットにクリップが付いているもの。クリップで何かを挟んで冷蔵庫などに貼っておける。たぶん挟むべきものが見つからず、使われないままにここに入れられていたこれを、今回わたしはとりあえず冷蔵庫に貼った。挟むべきものは相変わらずない。
 
一つは、ローマで買った古代ローマの復元コイン。熱い金属を親指で押しつぶしたような、薄い楕円のそれ。誰かの横顔と文字、反対側には車輪つきの荷台を馬にひかせる人らしき絵と文字。財布からはみ出したいつかの五円玉のように自然な見つかりぶりである。ひとまずテーブルに載せておく。缶を空にせねばならぬ。
 
一つは、プラスティックのリング。中央にダイアモンド風の一粒のきらきらが嵌め込まれている。なんだろうこれは。指に嵌めるには輪が大きすぎる。筒状の紙とか、贈り物の袋とかを留めるのについていたのだろうか。まったく記憶にないが、おそらくかつてのわたしも、捨てるに忍びなくーきらきらがついているしー、この缶に入れたのであろう。そして今回、わたしはこれは捨てることにした。数年立ったが用途は見つからぬままだったし、存在すら覚えていなかったのだから、使う機会もーあったとしてー失われるままだったのだもの。そしてこの先もそうであろうということが、実にはっきりと予感できた。
 
一つは指輪である。これはほうきに乗った魔女をかたちどった指輪で、ほうきの柄の部分がぐるっと一周して輪になっている。魔女はトンガリの先が折れた帽子をかぶり、うすら笑いを浮かべ、ブーツを履いてほうきにまたがっている。横浜へ行ったときに買ったものだった。指に嵌めてみて、少し輪が大きかったのでその場で縮めてもらったことも思い出した。あれは6月のくもりの日だった。ぐるりと指先でそれを回しながら見て、思うに、これはおそらく変色しているのだ。こんなに10円玉みたいな色じゃなかったはずだ。いつかのわたしがどこかから帰ってきて指輪を外し、ひとまずここへ、と缶に入れ、いつしかその缶は棚の奥へゆき、手前にはハンドクリームや薬の瓶がやってきて、見えなくなった。その間、指輪はこつこつと変色していったのだろうたぶん。100%じぶんのしたことである。「これはわたしに非があります!」と英語の直訳のような宣言が頭に浮かぶ。
 
Googleで調べた。この指輪を買った店も検索したら出てきたし、この指輪の素材もわかり、銀(Ag)であった。続いて、銀をきれいにする方法も調べたー家にあるもので。耐熱容器にアルミホイルを敷き、銀製品を入れて、熱湯と重曹をかけるのが良いと言う。これまで幾度か、こうやって検索した方法に飛びついて、無邪気に実行した結果、ちっともうまく行かず、状況は悪化しものを損ない落胆したことを思い出して(服についた歯磨き粉の落とし方やシールの剥がし方など)、いくつかのページを比較検討して読んだ。それでまあ、結局のところ「なんとなく」としか言いようがないのだが直感に従い、耐熱容器とアルミホイルと熱湯と重曹でやってみることとした。
 
指輪を浸すだけなので、熱湯もすぐ沸くし、容器も小さくてよいから耐熱ガラスの器にアルミホイルはすぐ敷き終わり、指輪を入れて重曹をスプーンでふりかけながら、わくわくした。そこへ熱湯を注ぐと、しゅわと白い泡が浮かび、間もなく静かになったので、顔を近づけて観察した。木のスプーンで軽くかき混ぜる。お湯がほんのりと銅色に染まっている気がする。指輪のそばに小さな透明の泡が見える。しばらくして指輪を取り出して水ですすぐ。変色は60%ほど取り除かれたようであるーそもそも元々の色味をはっきりとは覚えていないのだが。もっとピカピカだった気もするし、多少は古びて見える風合いだったような気もする。
それから歯磨き粉をつけて軽く磨いてすすぎ、もう一度、重曹とアルミホイルと熱湯風呂に浸け、しゅわしゅわを見守った。再度すすいで、眼鏡拭きで拭き上げた。そしていま、わたしは指にこの指輪をはめて、これを書いている。完全にピカピカ(購入したお店の商品写真を見る限りでは、ピカピカである)とはいかないが、ところどころくすんだり、つるつるしたりして、これはこれでよい具合である。
 
重曹とアルミホイルと熱湯とのなかで、この指輪になにが起きたのだろう。あのしゅわしゅわはなんのしゅわしゅわだったのか。きっと“化学反応”というやつだろう。そうだろう。わくわくしてその変貌を見守ったわたしは、ろくになにも知らず、わからないのであった。ただ、そうしてみるのがよかろうということで、そうしてみただけで、なんの根拠も確信もなしに、熱湯を注いだにすぎない。ああ、中学生のころのあなた、化学記号にも化学式にも一切の関心を持たずになんとなくで答案を埋めていたあなた(概ね外れ)、教科書の炎色反応のページだけは好きだったあなた、それはわたし。化学の時間をいったいなにして過ごしていたのかすらまったく思い出せない。だけど、将来、あなたの怠慢によりすっかりくすんだあなたの指輪は、重曹とアルミホイルと熱湯でわりときれいになるよ。それって結構おもしろいことだったよ。だけどわたしときたら、ぜんぜん理由がわからないのさ。
まあだいたいのことがほとんどわかっていないままにいまになっている。雷がなぜ光るのかも飛行機がなぜ浮くのかもガソリンがどうやって車を走らせるのかもメールがどうやって相手に届くのかもキウイがどうやって実って収穫されているのかもじぶんの髪がいつの間に伸びているのか、おのれの胃がどうやってややこしいあれこれの食べ物を消化しているのかも、なぜ夢を見るのかもわからぬ。
わからぬわからぬ。
それでもなんだか生きているので、またなにかわくわくすることもあるだろう。くすんだ指輪を見つけた今日みたいに。